2007 10/20(土) 14:48 田中氏より㈱チューリップ企画へ
チューリップ企画 サービス課 山田様
ご多忙中にも関わらず、ご返信いただき、ありがとうございました。お礼遅くなり、失礼お許しください。
>1つは、善慧房証空が、
>「皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。」
>と説法しているように描いているが、お聖教にはどこにも、「念仏さえ称えれば」とは書かれてない。なのになぜ、「念仏さえ称えれば」と説法したように描いたのか、その根拠は何か、ということでした。
> 田中様が提示されたとおり、『口伝鈔』には、
>「小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」
>と書かれてあります。
> この諍論の内容を、仏教を知られない一般の皆さんに、どう表現すれば、誤なく分かって頂けるか、と苦心の末に、あのような描き方になったのですが、「それではいけない」と、お叱りいただき、非力を恥じ入るばかりです。
> ところで、田中様なら、一般の人たちに、どのような言葉で、善慧房証空のなされていた説法を、表現されたでしょうか。
> アドバイスをいただければ、有り難く思います。
現代人に仏教の心を伝えんとさなれる熱意に、頭の下がる思いです。
そのためには、従来なかった大胆な表現方法もあって然るべきと思います。しかしながら、飽くまで意味が変わらない範囲に留めねばならぬと、私は考えます。
「小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」
これは、「死ななければ(極楽)往生は出来ない」という意味であることは明らかですが、ここに「念仏さえ称えれば」と付け加えてよいかが問題だと思います。
口伝抄の続きには、『善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。』とありますように、善恵房の説は諸行往生であったと考えられます。
諸行往生については、執持抄に『臨終をまち、来迎をたのむことは諸行往生をちかいまします第十九の願のこころなり。』と記述されているように、弥陀の十九願の往生ですから「念仏さえ称えれば」という意味にはなりません。
また、法然上人のお弟子であった聖覚法印は、唯信抄に『諸行往生というは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがうなり。』と記述されています。つまり、法然上人は諸行往生について、このように説法されていたと推定されます。
つまり、『どんな人でも、良い行いに励んでいれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』と表現すべき内容だと思います。
念仏も善行の一つだと言えないことはありませんが、これを、『念仏さえ称えれば』と表現しては、意味が変わってしまいます。
現今の浄土真宗の寺院において、称名正因の説を唱えている僧侶が少なくないことに対する警鐘の意味で描かれたものだと拝察しておりますが、少なくとも善恵房の責任ではありませんし、事実とも異なってしまいますので、このような表現は不適当ではないかと考えます。
>2つには、
>…………………………………………………………………………
>善慧房証空「お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?」親鸞聖人「もちろんございます。阿弥陀如来の本願に、若不生者不取正覚とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!」
>…………………………………………………………………………
> このやりとりで、親鸞聖人が、「若不生者不取正覚」の「生」は「この世で生まれさせる」ことだ、と言われていることについて、「親鸞聖人が、そんな解釈をされている根拠はない」とのご指摘でした。
> では、親鸞聖人は、「不体失往生」を主張されなかった方なのでしょうか。
親鸞聖人が不体失往生を主張されたことは口伝抄に明らかです。しかしながら、不体失往生とは、「至心信楽をえた」ということであって、「極楽に往生した」という意味ではありません。
尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』
『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。
いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。
また、唯信鈔文意には『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』と記述されています。
これも、同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。
ビデオにおける件の部分は、現生での救いを強調するための表現だと拝察しておりますが、本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。
> 田中様のおっしゃるとおり、こと仏法の問題ですから、もし間違いがあれば、お詫び訂正しなければなりません。
> また間違いでなくても、親鸞聖人の教えを鮮明にする、よりよい表現があれば、修正するに憚りませんので、ご教示いただきたく、宜しくお願い致します。
このような貴社の姿勢は、大変素晴らしいと思います。不勉強な私のようなものが、意見させて頂くことは失礼とは存じますが、ご検討のほど頂けましたら、有難く思います。
田中

