㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

2007 11/30(金) 10:31 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

田中様

幾たびもお手を煩わせまして申し訳ございません。

> > 前に、お示し頂いた根拠で良く分からなかったといいましたのは、愚鈍なものですから、「如来の本願が真実であると疑いなく信じること」、親鸞聖人が「信楽をえた」といわれていることについて、もう少し、どうなるのか、具体的に教えて頂きたかったと思ったからであります。
>
>  貴社のビデオ解説書に『阿弥陀仏の本願に救われた人は、この世から、絶対の幸福に生かされて往く。何ものもさわりとならぬ幸福に救われる体験を「往生」というのだ。』と記述されている通りなのではないでしょうか?

この度の田中様のお答えは、「信楽をえた」とは、「何ものもさわりとならぬ、絶対の幸福に生かされて往くこと」ということでしょうか。文末の「~と記述されている通りなのではないでしょうか?」といわれている意味が、今一ハッキリしなかったものですから、くどいようですが、お尋ねさせていただきます。

>  >「若不生者」の「生」が、死んで極楽に「生まれる」ということだ、ということを前提とされても結構ですので、「若不生者」の「生」と、「至心信楽をえた」とおっしゃることとの関係はあるのでしょうか。あれば、どんな関係か、ご教示お願いしたいのであります。
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>  こんな失礼な物の尋ね方は無いと思いますが、如何なものでしょう。「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?
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>  異論をお持ちであれば、まず「生」が死んで極楽に「生まれる」ということだと納得して頂かねば、説明は無駄になります。私に無駄な説明をせよと仰るのですか?

「前提にされても結構です」とか「異論ではありませんが」と言いましたのは、田中様が「若不生者」の「生」を、死んで極楽へ生まれることのみのように思っていられるようであったからです。これで、ご立腹なされたのならばお詫び致します。

これについては無駄な説明に決してならないと思います。
それで改めて、「信楽をえた」ということと「若不生者」の「生」とは、どんな関係か、お尋ね致します。よろしくお願い申し上げます。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田