㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

2007 12/15(土) 23:26 田中氏より㈱チューリップ企画へ

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。

「若不生者」の誓い、すなわち十八願の中で「信楽をえる」に対応するのは「至心信楽欲生我国乃至十念」です。「若不生者」は「死んで極楽に生まれる」に対応します。

>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。

少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。

これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。

つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。

>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。

「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。

> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。

貴社のビデオの解説書に書いてありました。しかし、貴方の疑問を読ませて頂くと、自分達でも疑問に思うことを、解説書に書かれていたことになります。

私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?

>田中様は、何時、そのようにハッキリ疑いが晴れられたのでしょうか。お尋ね致します。
> 最後に、前から幾度とお聞きしていることですが、田中様ご自身は「若不生者」の誓いに、ツユチリほどの疑いもなくなられたのでしょうか。お尋ね致します。

一度も尋ねられた覚えはありませんが、私は「信楽をえた」身ではありません。山田様は、いかがですか?私はお答えしましたから、山田様もお答えください。

田中一憲