2007 12/17(月) 23:14 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>「本願に、ツユチリほどの疑いがあっても、往生できない」と教えられていますが、この度、田中様は、私はまだ「信楽をえた身ではありません」と言われ、弥陀の本願に疑いがある身とおっしゃいました。
>「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか。お尋ね致します。
信楽をえていない人は、本願文の一部分に疑いが有り、残りの部分には疑いが無いと解釈しておられるのですね。そうでなければ、「どこに疑心があるのでしょうか?」という質問が出てくるはずがありません。
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思いますが、いかがでしょう。
>「信楽をえて」いない、「本願」に疑いのある方ならば、『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」も分からないし、「生まれさせた」と言われているものも分からない、と言うことになりますが、そのように理解してもよろしいでしょうか。お尋ねします。
分からないからこそ、親鸞聖人のお言葉に従わねばならないと思います。親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は、極楽浄土に生まれることだと、何回も明記されていますので、私は親鸞聖人のお言葉に従います。
>「信楽をえて」いない者が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、田中様にお聞きすることは、おそらくないのではないでしょうか。
「信楽をえて」いる方が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、聞いてこられるはずがないと思います。
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を、「死んで極楽に生まれる」という意味以外に解釈されていません。少なくとも、親鸞聖人と違う信心の方だと思います。
ところで、山田様は信楽をえられましたか?
まだ、お答えいただいていませんので、重ねてお尋ねいたします。
田中一憲

