2007 12/20(木) 00:16 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>「本願文の一部を疑い、残りは信ずる、ということは絶対にありません」
>田中様の仰る通りです。絶対にあり得ないことです。
この点は、分かって頂けたようですね。
「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか、という質問が出てくること自体、教えが分かっていないということなのです。
>『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」とは「何を」言われたのでしょうか。「生るべからざるもの」の正体はなんでしょうか。
>また、その後の、「生まれさせた」と言われているのは、何を、どのように「生まれさせた」と言うことでしょうか。お尋ね致します。
この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。
「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。
この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』
さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。
『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。
>もし、田中様が、そんな生きている時のことではない、そんなこととは無関係だよ、と仰るのなら、「若不生者」は、そんなことではない、そんなこととは無関係だ、と言われている親鸞聖人でも覚如上人でも結構です、そのお言葉をお聞かせ下さい。
私は、最初から「生まれさせた」は、生きている時であると主張し続けてきました。「良く読まれて文章の理解力を取り戻して下さい。」と私をお叱りになる前に、山田様こそ、良く読まれて文章の理解力を取り戻したほうが、良いのではないでしょうか?
私が、改邪抄の「生まれさせた」は、死後だと主張した文章があれば、指摘してください。
>聖人が「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っているか、否かは、いま問われていることです。田中様の、これについての意見は充分に受け賜って存知していますのでご心配なさらないで下さい。
しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。
>「信楽をえて」いないものが、山田のようなことを聞けるはずもないし、聞く筈がないじゃないか、とお答えしたのです。
>これでも答えていないと仰るなら、何度でもお答え致します。良く読まれて文章
の理解力を取り戻して下さい。
では、もう一度お願いします。「信楽をえた」「信楽をえていない」の、どちらかでお答えください。それ以外の説明は書かないでください。
田中一憲

