2007 12/26(水) 00:31 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>死ぬ「心」とは、雑行雑修自力の心ですが、誰にでも分かる言葉で、その雑行雑修自力の心を2、30聞かせて頂けませんか。心の「死」が分かっていれば、何よりやさしいことですから。
貴方は、「雑行雑修自力の心」を、「誰にでも分かる言葉」で説明できるような程度のものだと思っておられるのですね。
もし、そう思われるなら、2、30とは言いません。1つで良いですから、「誰にでも分かる言葉」で説明してみて下さい。
>「本願を信受するは 前念命終なり、即得往生は 後念即生なり」と、親鸞聖人は仰せです。後念即生の「生」は、「至心信楽欲生我国」のことで、「若不生者」の「生」とは関係ないと言われるのならば、その根拠を貴方がこだわる、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。
貴社が、体失不体失往生のじょう論の根拠として使われている口伝抄には、
『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』
と記述されています。
即得往生は「至心信楽」であることが明示されていますので、「即得往生は後念即生なり」の記述の通り、これは至心信楽(欲生我国)に当たります。しかし、これが「若不生者」の「生」と関係ないなどとは、私は一度も書いておりません。
>>「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。
上記は12月15日に、貴社に届いているはずのメールです。「本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。」という貴方の言葉通りなのでしょうか?
>無視していれば、忙しいのに返信などするはずないじゃありませんか。ご安心下さい。
再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?
根拠のない貴社の自説であることが分かり、安心しました。
田中一憲

