2007 12/26(水) 12:02 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
「雑行雑修自力の心」を、「誰にでも分かる言葉」で説明できるような程度のものだと、貴方は思っておられるのですか。それなら1つで良いですから挙げて下さい、との返信。
こんな恥ずかしいことを、よくも堂々と言えたものだと感心するが、だから貴方には、雑行雑修自力の心が、全然分かっていないと言ったのです。「死んだら極楽に生まれさせると誓われているが、本当だろうか」などと、本願を疑っている心、すべてを「自力の心」と言うのです。一つで良い、と言われるが、ついでに言っておきましょう。『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。
「至心信楽」と「若不生者」「生」と関係ないと、私は一度も書いたことがない、と断言された。では、どんな関係があるのかと聞くと、田中さんは、「信楽」をえた人だけが「若不生者」と極楽に生まれられる、という関係だと仰る。
その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

