2007 12/27(木) 15:05 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
「雑行雑修自力の心」という深遠なお言葉が、誰にでも分かると思っているのか、との返信。
それでは『御文章』に数多く、「雑行雑修自力の心」をふりすてて、とか、なげすててとかありますが、誰にでも分からぬことを、蓮如上人は仰っているのですか。
「雑行雑修自力の心」のなんたるかも分からず、当然、「雑行雑修自力の心」の廃ったことのない貴方には、〝深遠な言葉〟としか感じられないのは分りますが、分からぬものを、どうして、ふりすてて、弥陀をたのむことができるのですか。
それは「十八願の至心信楽の誓による」と、貴方はおっしゃりたいのでしょうが、仏教の素人といわれるから仕方がないかもしれませんが、先ず「至心信楽の誓(願)」を良く知ってください。
「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。われわれを「浄土に生まれさせるために」弥陀が正覚をかけてのお誓いなのです。だからこそ「至心信楽の願」と言われるのです。
では、「何を」、「どのように生まれさせる」と、誓われているのか、と言いますと、「雑行雑修自力の心」こそが迷いの親玉だから、その「雑行雑修自力の心」を死なせ(前念命終)「信楽」に生まれさせ(後念即生)ることができなければと、弥陀の命は「信楽」に懸けられているのですよ。その願意を明らかにされたのが、親鸞聖人の不体失往生の教えです。
だから「至心信楽の願」を親鸞聖人は、「若不生者のちかい」とも言われ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と教えられているのです。
「雑行雑修自力の心」が廃り、「信楽」と、一念で心が晴れ渡り慶喜しますから、「一念慶喜する人は」と言われ、往生かならず定まる(信楽)に生まれたのは、全く「若不生者のちかい」によるのだよ、と仰っているのです。
「雑行雑修自力の心」を良く知り、「至心信楽の願意」が知らされれば、貴方のもろもろの誤解は直ちに解けるでしょう。反論があれば、年末年始かまいません。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

