2007 12/27(木) 22:21 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>それでは『御文章』に数多く、「雑行雑修自力の心」をふりすてて、とか、なげすててとかありますが、誰にでも分からぬことを、蓮如上人は仰っているのですか。
誰にでも分からぬことだから、200通以上の御文章を書かれなければならなかったのです。
>「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。
根拠の無い、独自の解釈ですね。そんなことを、親鸞聖人がどこに書かれていますか?
>われわれを「浄土に生まれさせるために」弥陀が正覚をかけてのお誓いなのです。だからこそ「至心信楽の願」と言われるのです。
「至心信楽」に生まれた人を、「浄土に生まれさせる」が「若不生者」なので、この「生」は死後に限られるのです。
>では、「何を」、「どのように生まれさせる」と、誓われているのか、と言いますと、「雑行雑修自力の心」こそが迷いの親玉だから、その「雑行雑修自力の心」を死なせ(前念命終)「信楽」に生まれさせ(後念即生)ることができなければと、弥陀の命は「信楽」に懸けられているのですよ。その願意を明らかにされたのが、親鸞聖人の不体失往生の教えです。
そのように「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。つまり、阿弥陀仏の救いは2回あるのです。どうやら、あなたは1回しか無いと思っておられるようですね。
>だから「至心信楽の願」を親鸞聖人は、「若不生者のちかい」とも言われ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と教えられているのです。
>「雑行雑修自力の心」が廃り、「信楽」と、一念で心が晴れ渡り慶喜しますから、「一念慶喜する人は」と言われ、往生かならず定まる(信楽)に生まれたのは、全く「若不生者のちかい」によるのだよ、と仰っているのです。
この和讃についての貴社の解釈の誤りについては、すでに書いた通りです。親鸞聖人の記述も、文法も全く無視した解釈で、論ずるまでもありません。
>「雑行雑修自力の心」を良く知り、「至心信楽の願意」が知らされれば、貴方のもろもろの誤解は直ちに解けるでしょう。反論があれば、年末年始かまいません。
結局、最後まで根拠は一つも挙げられませんでしたね。
すでに貴方は、親鸞聖人と異なる、貴社の独自の解釈だと認めておられるのですから、反論する必要もありません。
私は、親鸞聖人の解釈に従いますので、貴社は、ご自由に自説を主張されたら良いと思います。しかし、親鸞聖人のお名前で、ビデオを販売するのはやめていただけませんか。親鸞聖人が、どこにも書かれていないことなのですから。
田中一憲

