2007 12/28(金) 15:01 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
「雑行雑修自力の心」は、誰にでも分からないことだから200通以上の御文章を書かれねばならなかったのだ、と貴方は言う。誰にでも意味が分かってこそ書かれた意味があるのではないか。そんな誰にも意味の分からぬことを何百回書かれても、なんの意味があるのですか。
「雑行雑修自力の心」が分からねば、御文章は絶対に読めないのだ。御文章も読めない者が、弥陀の本願や、親鸞聖人、蓮如上人の教えを、あれこれ言うのは土台無理なのだ。丁度、幼稚園児が横綱に相撲のコーチが出来ないのと同じです。
「至心信楽」に生まれさせることができなければ、弥陀は正覚を取らぬ、というのは、根拠のない、独自の解釈だとの批判、よくぞ言ったり。貴方は、親鸞聖人の教えも蓮如上人の教えも、まるで分かっちゃいないのです。真宗学もろくにやっていませんね。それでは、理解だけでも正しくはできませんよ。
そんな方だから仕方がないが、根本は貴方が、「雑行雑修自力の心」が分からないから、その雑行雑修自力の心の廃ったということもない、ゆえに「前念命終」の心の臨終も知らない、改邪抄の「生まるべからざるもの」も分からぬことになるのです。
当然、「信楽」に生まれた味もなければ、「後念即生」の心の誕生も知らないし、「生まれさせられた」という、意味も分からない。ないないづくしで、「信楽まことにときいたり」と言われていても、「一念慶喜」したこともなければ、「往生必ず定まった」大満足も知らぬ。ましてそれが、弥陀が正覚を懸けた「若不生者」の念力であったとは、ユメにも思えないのです。
そんな者からは、善恵房と同じで親鸞聖人の仰る不体失往生は、とんでもない根拠のない、独自の解釈に思えたのだ。善恵房には「今、生まれさせられた」ということがなかったからだ。そこであの体失・不体失往生の大諍論が起きたのですよ。
善恵房は、弥陀の本願の「若不生者」は、「死んで極楽に生まれさせる」ことだけだと誤解していたのです。それに対して親鸞聖人は、「体失往生」の前に「不体失往生」がなければならぬ、事実、親鸞聖人は不体失往生させられた体験から、「若不生者」の願意を開顕されたのが、体失往生・不体失往生の大諍論だったのです。
御文章も読めない貴方が、ビデオ販売の指図は傲慢でしょう。反論歓迎。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

