2008 1/10(木) 15:23 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
田中さん、貴方が親鸞聖人の不体失往生の教えを認め、『この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことができる』との主張は、十分承知していますのでご安心下さい。
さて問題は、「極楽浄土に生まれる」肝心の「信楽」に「生まれる」ことと、「若不生者不取正覚」の弥陀の誓いの関係が、いま追求されているのです。
貴方ならご存知と思いますが、『大無量寿経』には、「易往而無人」と説かれ、「弥陀の浄土には、往き易いが、人なし」と、釈尊は言われていますが、なぜか。
その意を親鸞聖人は、「人なしというは、真実信心の人は、ありがたきゆえに、実報土に生るる人稀なりとなり」(尊号真像銘文)と仰っています。
誰が読んでも分かるように、「死んで極楽に生まれられるか、否か」は、偏に「真実信心(信楽)に生まれたか、否か」で決まるということです。
ところが、その「真実信心(信楽)に生まるる人は稀である」と、極難信の「信楽」と教えられています。そんな極難の真実信心(信楽)が、私たちにどうして「生まれる」のでしょう。貴方も仰っている通り、全く、弥陀の本願力(若不生者の念力)によるしかないと教えられています。
されば、「信楽」が私たちに「生まれる」のは、偏に、「若し、生まれずは、正覚をとらぬ」と、弥陀が生命をかけて誓われている、「若不生者の念力」によることは明白です。ゆえに、親鸞聖人は「若不生者のちかいゆえ 信楽まことに時至り 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、言われているのです。これが親鸞聖人が善恵房と大諍論までして明らかにして下された、不体失往生ではありませんか。
『「若不生者の念力」なくして、「信楽」が私たちに「生まれる」ことがあるのか、ないのか』が、いま問われていることなのです。
貴方の言い分では、弥陀は「死んで極楽に生まれる」ことだけに正覚をかけていられることになりますが、善恵房証空の体失往生の主張そのものではありませんか。
弥陀が、「信楽に若し生まれさせることができなければ、正覚を取らぬ」と、誓われたからこそ私たちに「信楽まことに時至る」のであり、そして、その人だけが「極楽浄土に生まれられる」のではありませんか。
貴方は、「死んで極楽に生まれる」まで、「若不生者の念力」は無関係で、働かれないと思われますか。
貴方の求める親鸞聖人の根拠は、そのうち明らかになってゆくでしょう。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

