2008 1/14(月) 22:05 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>ところが、その「真実信心(信楽)に生まるる人は稀である」と、極難信の「信楽」と教えられています。そんな極難の真実信心(信楽)が、私たちにどうして「生まれる」のでしょう。貴方も仰っている通り、全く、弥陀の本願力(若不生者の念力)によるしかないと教えられています。
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>されば、「信楽」が私たちに「生まれる」のは、偏に、「若し、生まれずは、正覚をとらぬ」と、弥陀が生命をかけて誓われている、「若不生者の念力」によることは明白です。
>『「若不生者の念力」なくして、「信楽」が私たちに「生まれる」ことがあるのか、ないのか』が、いま問われていることなのです。
私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありませんが、「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?
>貴方の言い分では、弥陀は「死んで極楽に生まれる」ことだけに正覚をかけていられることになりますが、善恵房証空の体失往生の主張そのものではありませんか。
「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?
>貴方の求める親鸞聖人の根拠は、そのうち明らかになってゆくでしょう。
これだけメールのやり取りをしても、明らかにならないのは、根拠がないと考えざるを得ません。
田中一憲

