2008 1/15(火) 16:10 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
お元気でなによりでした。
「これだけメールのやり取りしているのに」と仰いますが、まだ序の口ですよ。
堅実に論じ合って、親鸞聖人の正しい教えの開顕に努めましょう。
先日も「信楽」に「生まれる」人は稀であることを、親鸞聖人のお言葉で挙げましたが、蓮如上人も『大無量寿経』の「易往而無人」の意味を同じように明らかにしていられます。
『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文の意は、「信心をとる人稀なれば、浄土へは往き易くして人なし」と言えるは、この経文の意なり。(『御文章』)
「自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰し難く、大信海(信心・信楽)に入り難し」(『教行信証』)
とも言われて、「極楽に生まれる」ことは易しいが、「信楽」に「生まれる」ことが難しいのだと仰っています。なぜでしょうか、田中さん。
それは、「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と親鸞聖人は言われ、蓮如上人は「雑行雑修自力の心」が廃らないからだと言われています。
貴方は、「雑行雑修自力の心」は深遠だから言えないと仰っていますが、誰にも分からないようなことを蓮如上人が、あんなに沢山『御文章』に書かれるでしょうか。
「これだけ善をやっているから悪い処へは行かんじゃろう」
「みんなから善い人と言われているから、地獄へは堕ちんだろう」
「こんなに善いことしているもの、死ねば極楽参り間違いなかろう」
「朝晩キチンと勤行しているから、悪い処へは行かんだろう」
「阿弥陀さまのお給仕は欠かさないから、助けて下さるだろう」
「これだけ毎日、念仏称えているから、死んでも大丈夫じゃろう」
「信心を獲られたようにも思えるが、どうもハッキリしない」
「念仏を称えても、ちょっとも味がない、これでもいいのだろうか」
「ツユチリほどの疑心があっても助からぬといわれるが、気持ちが悪い」
「生きている時に、ハッキリ助かったということなどあるはずがなかろう」
「雑行雑修自力の心とは、どんな心か深遠で分からない」
「雑行雑修自力の心が、分かったから大丈夫」
「後生暗い心が死んで、明るい心に生まれたのは、若不生者の念力であったとハッキリしない心」
挙げよと言われればいくらでもあるが、本願疑惑心の一切を「雑行雑修自力の心」と言われるのです。この「雑行雑修自力の心」が廃って「信楽」に「生まれる」ことが難中の難だと教導されているのでしょう。
親鸞聖人のお言葉で言えば、一念で、弥陀の救いに値うた時が「信受本願」(本願を信受した時)であり、同時に「前念命終」(雑行雑修自力の心の死ぬ時)であり、同時に「即得往生」(信楽に生まれ、不体失往生する時)するのです。
「若不生者」の本願力によらねば、「雑行雑修自力の心」は廃らないし、絶対に「信楽」に「生まれる」ことはできないというご教示です。
貴方はこの度、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは、異なるように言われていますが、どう違うのですか、教えて下さい。
「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。
ご健勝を念じます。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

