㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

2008 1/18(金) 13:46 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

田中様

『「若不生者」の「生」を「不体失往生(信楽)」と解釈できる根拠だけを聞いているのに、未だに答えない』と、返信された。

私たちは、その根拠が明確になるまでは、何百回になろうとも真実の開顕を続けねばなりません。それが親鸞聖人の教えを明らかにすることですから。

これが一通のメールなどで終わるような内容ならば、親鸞聖人の「体失不体失往生」の大諍論は無かったでしょう。田中さん、貴方は一体、私たちの曠劫流転の親玉は、何だと思っておられますか。

「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」(正信偈)

「真の知識にあうことは
かたきがなかになお難し
流転輪廻のきわなきは
疑情の障りにしくぞなき」(高僧和讃)

私たちの迷いの親玉は、欲や怒りの煩悩ではなく、「疑情」一つと親鸞聖人は言われています。「疑情」とは、「雑行雑修自力の心」です。極楽浄土へ生まれさせる為に弥陀が、我々の、この迷いの親玉である「疑情(雑行雑修自力の心)」を、「信楽(往生一定の決定心)」に「生まれさせる」と「正覚」をかけて誓われているのが、「若不生者不取正覚」ではありませんか。

だから、「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)と、親鸞聖人は仰っているのです。貴方の言い分では、必然的に「極楽に生まれられる」ことに、弥陀は正覚をかけて、「獲ること難し」と言われている「信楽」に、弥陀は正覚をかけておられないことになります。それが「弥陀の願心」でしょうか。

何を勘違いしていられるのか、「雑行雑修自力の心」について、当方、コロコロ変わったことは一度もありません。

断じて、逃げては真実開顕はできません。
「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」と、どう違うのか、再度、お尋ねします。

『「信楽をえた人を、必ず極楽浄土に生まれさせる」というのが「若不生者不取正覚」の心だと、親鸞聖人が何箇所も書かれています』と最後に貴方は、またまた強調なさる。誰も否定していない、そんな言葉の床擦れは避けましょう。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田