2008 1/19(土) 21:13 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>『「若不生者」の「生」を「不体失往生(信楽)」と解釈できる根拠だけを聞いているのに、未だに答えない』と、返信された。
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>私たちは、その根拠が明確になるまでは、何百回になろうとも真実の開顕を続けねばなりません。それが親鸞聖人の教えを明らかにすることですから。
すみませんが、私には何百回もメールを送り続けるような時間はありません。私が尋ねているのは、親鸞聖人が書かれているか否かです。一通どころか、一行で済むことを尋ねているのです。
>極楽浄土へ生まれさせる為に弥陀が、我々の、この迷いの親玉である「疑情(雑行雑修自力の心)」を、「信楽(往生一定の決定心)」に「生まれさせる」と「正覚」をかけて誓われているのが、「若不生者不取正覚」ではありませんか。
そんなことは、親鸞聖人はどこにも書かれていません。
>だから、「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)と、親鸞聖人は仰っているのです。貴方の言い分では、必然的に「極楽に生まれられる」ことに、弥陀は正覚をかけて、「獲ること難し」と言われている「信楽」に、弥陀は正覚をかけておられないことになります。それが「弥陀の願心」でしょうか。
弥陀が正覚をかけておられるから、信楽をえた人は、「必然的」に極楽に生まれられるのです。あなたは、必然的に極楽に生まれられるから、正覚をかける必要は無いと言いたいのですか?
そうだとしたら、貴方の理解力を疑う文章です。
弥陀が「信楽に生まれられる」と正覚をかけておられるなら、「必然的に信楽に生まれられる」ことになりますが、必然的に信楽になれるのに、なぜ「獲ること難し」を言われているのですか?
>断じて、逃げては真実開顕はできません。
>「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」と、どう違うのか、再度、お尋ねします。
貴方の作った言葉について、私に尋ねてどうするのですか?
逃げずに根拠を挙げていただきたく思います。
田中一憲

