2008 1/20(日) 18:46 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
これだけ答えていても、貴方にも分からないことを思うと、ネットで見ている人たちを考えると、もっと分かり易く正しい親鸞聖人の教えを徹底しなければならない。「仏法には明日という日はない」と蓮如上人は仰っています。時間がないなどと言っておれることではありません。お互い奮起しましょう。
『弥陀は、我々の迷いの親玉の「疑情」を、「信楽」に「生まれさせる」ために正覚をかけて、「若不生者」と誓われているのである』と、当方が言ったのです。
この度それに対して、「そんなことは、親鸞聖人は、どこにも書かれていない」と貴方は言い切った。だから「貴方にも分からない親鸞聖人の教え」と、先ほど言ったのです。
必然的に「極楽へ生まれられる」のは、「信楽をえた」人であって、「獲ること難し」と言われているのは、
「常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽、実に獲ること難し」と親鸞聖人仰っているように、難しいのは、極楽へ往くことではなく「信楽をえる」ことなのですよ。
誤解を怖れず、分かり易い例えで言いましょうか。ある「高校」に合格すれば、必ず、好きな「大学」に入られるとハッキリしていれば、受験生は「高校」と「大学」、どちらに全力を尽くすでしょうか。
「高校」の合格に全力尽くすままが、好きな「大学」へゆく尽力とも言えますが、その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。
『「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです』。
これは、平成19年12月27日の、貴方からのメールですが、「信楽」にさえ「生まれさせれば」、必然的に「極楽へ生まれさせられる」のに、なぜまた、さらに「極楽へ生まれさせる」のに、「若不生者」と正覚をかけて誓われなければならないのですか。それでは大前提が崩れます。
例えで言えば、「高校」に合格しても、好きな「大学」に入れるか、否か、がハッキリせず、安心できないということになれば、ある高校に合格すれば、必ず好きな大学に入られるとハッキリする、という大前提が崩れましょう。
貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言われる。ネットで見ている人たちのためにも、どこがどう違うのか、ハッキリさせて下さい。みんな納得されるでしょう。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

