2008 1/21(月) 20:10 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
当方の出した例えを、貴方のように誤解する人を想定して、敢えて「誤解を怖れず」と言っておいたのに、なんという勘違いをなさるものか。驚くばかりです。
愚痴はやめて、くどいようでも繰り返しましょう。
貴方は、『若不生者は、「高校に合格した者」を必ず「好きな大学に入れる」と誓われたものだ』と、この度も返信された。今、問われているのは何か、貴方はご承知ですか。
「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。
だが、その「信楽」という高校に合格するのは、大変難しいと親鸞聖人は「信楽受持すること甚だ以て難し」(正信偈)と教えられています。それは、釈尊も、親鸞聖人も、蓮如上人も同じです。そのように「信楽をえる」ことが難しいから、「浄土」に生まれる人は少ない、と、善知識方は仰っているのです。そんな難しい「高校」に、どうして我々は合格できるのか。本願力(若不生者の念力)によってか、どうか、が今論じられているのです。
それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。
「本願力」(若不生者の念力)によらねば、絶対に「信楽をうる」ことはできないことは、貴方も認めていることですが、「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。
「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」という可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。
今回、貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったことは一度もない。あったら挙げてみよとまで断言された。それでは、平成20年1月14日のメールで「若不生者の念力」は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?、貴方の作った言葉でしょうか?、などと、なぜ問題にされたのか。「弥陀の本願力」も「若不生者の念力」も、同じことだと知ってのことなら無意味な問いではありませんか。ただ文字の配列の違いか、意味の違いか、あるいは逃げ道探しか、なんだったのか、大きな疑問が残るでしょう。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

