㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

2008 1/22(火) 22:14 田中氏より㈱チューリップ企画へ

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様

>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

>今回、貴方は、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったことは一度もない。あったら挙げてみよとまで断言された。それでは、平成20年1月14日のメールで「若不生者の念力」は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?、貴方の作った言葉でしょうか?、などと、なぜ問題にされたのか。「弥陀の本願力」も「若不生者の念力」も、同じことだと知ってのことなら無意味な問いではありませんか。ただ文字の配列の違いか、意味の違いか、あるいは逃げ道探しか、なんだったのか、大きな疑問が残るでしょう。

私は、一貫して、「若不生者の念力」などという単語は知らない、と言い続けています。親鸞聖人のお言葉か、貴方の作った言葉か、と尋ねたのが、何よりの証拠です。

知らない単語について、「同じ」だとか、「違う」などと判断できるはずが有りません。

私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったという根拠を、早く示してください。

しかも、私が、「貴方の作った言葉と判断する」と宣言しても、貴方は反論されなかった。つまり、貴方も造語であることを認めたわけです。

親鸞聖人のお言葉で根拠が出せないからといって、今度は造語まで持ち出して持論を主張してこられました。

もはや、法論という範疇ではありません。

私が尋ねているのは、若不生者を「信楽に生まれる」と解釈された、親鸞聖人の御言葉です。

すでに、何十通もメールを頂いていますが、一つの根拠も挙げられず、ついに造語まで出してこられました。

これ以上、貴方に尋ねること自体が、不毛と思われます。

田中一憲