2008 1/29(火) 22:06 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
> 一実・円満の真教・真宗の親鸞聖人の教えを、ウヤムヤのままに済ますことは許されません。
来ないと思っていたメールが来たので、今度こそ、「若不生者」の「生」は「信楽」であるという根拠が書かれてあるかと期待しましたが、またウヤムヤにされましたね。そんな人にメールを送り続けることに、何の意味があるのでしょうか?
> そんな60通や100通のメールのやりとりで、親鸞聖人の真教が理解できると思っていられるのか、と言わざるを得ません。
私が質問しているのは、親鸞聖人の記述された根拠だけです。理解する、理解しないは、その次の問題です。問題をすり替えないで下さい。
> 特に貴方は、当社に対して、「親鸞聖人が仰っていないことを描き、ビデオを販売している」とまで放言している。
今回の法論で、貴社は、一つも親鸞聖人の根拠を示すことが出来なかったのですから、親鸞聖人が仰っていないことが証明されたと思います。
> 弥陀の本願は信じられぬが、親鸞聖人のお言葉には従うと、おかしなことを言われる貴方だから提言しましょう。
まだ信楽をえていない人が、親鸞聖人のお言葉に従うことは、おかしなことだと仰るのですね。
貴方は「信楽をえた」と自称されますが、仮にそうだとすれば、信楽を得られるまでは、弥陀の本願を疑っていたはずです。貴方は、信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従っていなかったのでしょうか?
信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従う必要がないのなら、誰に対して、親鸞聖人は教えを説かれたのでしょうか?
きっと、貴方は親鸞聖人のお言葉に従わずに、信仰を求めてこられたのでしょう。そんな貴方が「信楽をえた」と言われましても、「また、メンタルテストか。」としか思えません。
> 「本願成就文」40字の教えの外に、親鸞聖人の教えはありませんが、その「願成就」の教えに貴方の言う、「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれることだけ」と教えられているところがありますか。あればお示し頂きたい。
「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれること」と、親鸞聖人が教えられていることは、貴方も認められている通りです。
「死んで極楽に生まれること」以外の意味があると、貴方が主張されるなら、その説明責任は貴方にあります。
「有る」と「無い」で意見が分かれたときは、「有る」と主張するものが説明責任を負うのが当然のことです。
これは議論の常識であって、このような常識も踏まえられずに、上記のような質問をされるのは、なぜでしょうか?
それは「死んで極楽に生まれること」以外の意味がある根拠が、見つからないからとしか考えられません。
> 親鸞聖人が生涯、このほか説かれなかった一実円満の真教「願成就文」には、「弥陀の本願」が詳説されていますが、「信心歓喜乃至一念」も、「願生彼国」も、「即得往生」も、「住不退転」も、みな不体失往生、現生不退、平生業成の「この世の救い」以外に説かれていません。
「この世の救い」で救われた人が、死んで極楽浄土に生まれることが、「若不生者」の「生」だと、親鸞聖人が書かれています。
『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』
このように、「即得往生」の「往生」は「至心信楽の帰命の一心」であることを説明され、さらに、
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり』
「至心信楽の帰命の一心」をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」だと解説されていますので、「願成就文」から考えても、貴社の解釈の誤りは明らかだと思います。
> これが「弥陀の本願」の淵源であり、「若不生者のちかい」の真意であるからです。この「若不生者」の極意を開顕されたのが親鸞聖人の教えです。
「若不生者のちかい」の真意を開顕された、親鸞聖人が、唯信抄文意に次のように書かれています。
『「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち「若不生者のちかい」をあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』
このことからも、「若不生者のちかい」の「生」は、真実報土に生まれることだということが分かります。
> 「一念慶喜する」のは、「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、という親鸞聖人の開説です。だからこの「生」は、「一念慶喜する身」に「生まれさせる」という意味です。
>
> 「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
>
> 貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。
親鸞聖人の書かれた文章に対して、「間違った文法も、へちまもあるはずない」と仰るのですか?
貴方は、正しい文法で書かれたものを、文法の常識も知らずに読まれたから、解釈を間違えたのだと思います。
> 今度貴方は、『「若不生者の念力」という単語の意味を知らない』と仰った。そんな人が、どうして「若不生者」の意味を論ずることができるのか。逃げ口上はありありですが、前述のように、当社の製品を誹謗中傷なされているのだから、貴方には重い責任と義務があります。
浄土真宗のデータベースにある、全ての聖教(三部経や七祖も含む)の検索をかけましたが、「若不生者の念力」という単語は見つかりませんでした。貴方が、「若不生者の念力」という単語を知っておられるなら、どの聖教に書かれている言葉か、教えて下さい。
知っておられるなら、当然、すぐに答えられるはずです。何百通とメールをやりとりすれば教えるという、「逃げ口上」は御遠慮ください。次のメールで、「この聖教に書かれてある。」と示せなければ、「若不生者の念力」という言葉も嘘だったと判断いたします。
田中一憲

