2008 1/30(水) 17:41 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
ウヤムヤにしてはならないのは親鸞聖人の教えです。誰も否定しない根拠ではありません。
なぜ己の欲する「根拠だけ」を急ぐのか。一切が、親鸞聖人の教えを明らかにする為ではありませんか。間違ってはならない。正しい親鸞聖人の教えを明らかにしようと、勇敢にも斬り込んでこられたのは、貴方ではありませんか。超多忙はお互い様。こんな大事、なぜ、そんなに結論ばかりを急がれるのか、堅実に開顕しましょう。
明らかに法論は、まだ終わっていないのに、勝手に貴方の自説を結論とされるのか。読むに耐えない反論、とでも言っておきましょう。
「信楽をえていない人」は、絶対、親鸞聖人の教えに信順できないのです。親鸞聖人の教えに信順できないから、「信楽をえる」ことができないのです。「信楽をえて」はじめて親鸞聖人のお言葉に信順できるのです。「信楽をえていない人」が、親鸞聖人のお言葉に信順できますか。
貴方は今まで、『「信楽」をえた人は、必ず、「死んだら極楽に生まれる」』という、誰も否定していない完全了解済みの、聖教の根拠ばかりを、あれもこれもと幾たび出されたことでしょう。それしか出来ないことも分かるけど今度も同じ無駄をなさっている。もう、お止めになっても真実開顕に支障はありません。
どれだけ同じ言葉を重ねてきたことか、ご承知のはず、今、問われていることは、そんなこととは違うのです。いま明らかにしなければならない問題は、その肝心・肝要の「信楽」が、どうして我々に「生まれる」のか。なんの力で「生まれる」のか。人間の力でなければ、なんの働きなのか、ということ一つなのです。
それに貴方は全く答えてない。60通以上もやり取りしながら残念ながら、ただの一度も答えてはいない。「ハッキリ答えているじゃないか」と仰るなら、どこに何と答えていられるか、示して頂きたい。今、それ一つが問われているのですから。
貴方が、今まで挙げられた根拠の総ては、「信楽に生まれたら、極楽に生まれる」ことの根拠ばかりです。それは充分、了解のこと。その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。
我々を、その「信楽」に「生まれさせる」弥陀の本願、若不生者の誓の『淵源』『極意』『肝要』『真意』が説かれているのが「本願成就文」ですから、親鸞聖人は、「願成就文」の教えしか教えられなかったのです。その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。
どんな人でも、不可称不可説不可思議の表現に、文法が間に合うと思っているのですか。反論は、混乱をもくろむ徒ごとにすぎません。
なぜ、「若不生者の念力」の単語を知る、知らないに、こだわるのか。意味か、内容か、はたまた時の浪費か、いずれにしてもおかしい。どうして親鸞聖人の教えを明らかにしようと立ち上がった方が、それに背を向けられるのでしょう。「浄土真宗のデータベース」にかからぬ、貴方の使用してきた単語を指摘しましょうか。くだらぬ泥試合は勿体ないです。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

