2008 2/2(土) 23:06 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>ウヤムヤにしてはならないのは親鸞聖人の教えです。誰も否定しない根拠ではあ
りません。
親鸞聖人の教えは、根拠に基づいて理解しなければなりません。根拠のない説は、親鸞聖人の教えとは言えないと思います。ウヤムヤにしてはならないのは「根拠」です。
>なぜ己の欲する「根拠だけ」を急ぐのか。一切が、親鸞聖人の教えを明らかにする為ではありませんか。間違ってはならない。正しい親鸞聖人の教えを明らかにしようと、勇敢にも斬り込んでこられたのは、貴方ではありませんか。超多忙はお互い様。こんな大事、なぜ、そんなに結論ばかりを急がれるのか、堅実に開顕しましょう。
>
>明らかに法論は、まだ終わっていないのに、勝手に貴方の自説を結論とされるのか。読むに耐えない反論、とでも言っておきましょう。
貴社に質問状を送らせて頂いて、約半年が過ぎました。根拠を尋ねるのと、結論を急ぐことは、全く違います。
根拠を出さずに議論を進めようとする貴方こそ、「結論を急いでいる」と思います。
>「信楽をえていない人」は、絶対、親鸞聖人の教えに信順できないのです。親鸞聖人の教えに信順できないから、「信楽をえる」ことができないのです。「信楽をえて」はじめて親鸞聖人のお言葉に信順できるのです。「信楽をえていない人」が、親鸞聖人のお言葉に信順できますか。
「若不生者」の「生まれる」の解釈について、「親鸞聖人のお言葉に従う」と書いたのが、いつの間に「親鸞聖人の教えに信順する」に変わったのですか?
つまり、貴方の意見だと、信楽をえた人以外は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と言ってはならないということですね。
>どれだけ同じ言葉を重ねてきたことか、ご承知のはず、今、問われていることは、そんなこととは違うのです。いま明らかにしなければならない問題は、その肝心・肝要の「信楽」が、どうして我々に「生まれる」のか。なんの力で「生まれる」のか。人間の力でなければ、なんの働きなのか、ということ一つなのです。
貴方の言わんとしていることは、
(1)「信楽」が「生まれる」のは、阿弥陀仏の力による。
(2)チューリップ企画では、阿弥陀仏の力を、「若不生者の念力」と呼んでいる。
(3)「若不生者の念力」によって、「信楽」が「生まれる」のだから、「若不生者」の「生」は、「信楽が生まれる」という意味である。
この三段論法を主張されたいようですが、(2)の「若不生者の念力」という言葉は、造語であることが明らかになりました。
法論において、造語は根拠とならないことは、貴方も承知のことと思います。
だから、「阿弥陀仏の力」=「若不生者の念力」ということを、私に認めさせようとしたのでしょう。
そして、私が認めないと、「どこが違うのか」と難詰されます。
そもそも「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから、「同じ」とも「違う」とも、説明のしようがありません。
このような議論の進め方自体が、法論とはかけ離れたやり方だと思います。
>それに貴方は全く答えてない。60通以上もやり取りしながら残念ながら、ただ
の一度も答えてはいない。「ハッキリ答えているじゃないか」と仰るなら、どこ
に何と答えていられるか、示して頂きたい。今、それ一つが問われているのです
から。
1月14日に、『私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません』と、ハッキリ答えましたが、貴方は自分の望んでいる答え以外は、答えと認められないのでしょうか?
>貴方が、今まで挙げられた根拠の総ては、「信楽に生まれたら、極楽に生まれる」ことの根拠ばかりです。それは充分、了解のこと。その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。
「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」
「なんの力で生まれるのか」→「名号」
「いつ生まれるのか」 →「乃至一念即得往生」
「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。
>我々を、その「信楽」に「生まれさせる」弥陀の本願、若不生者の誓の『淵源』『極意』『肝要』『真意』が説かれているのが「本願成就文」ですから、親鸞聖人は、「願成就文」の教えしか教えられなかったのです。その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。
先に示したように「名号」が、それに当たると思います。
>どんな人でも、不可称不可説不可思議の表現に、文法が間に合うと思っているの
ですか。反論は、混乱をもくろむ徒ごとにすぎません。
親鸞聖人の記述を、正しく理解しようとすれば、正しい文法で読まねばならないことは当然のことです。
>なぜ、「若不生者の念力」の単語を知る、知らないに、こだわるのか。意味か、内容か、はたまた時の浪費か、いずれにしてもおかしい。どうして親鸞聖人の教えを明らかにしようと立ち上がった方が、それに背を向けられるのでしょう。「浄土真宗のデータベース」にかからぬ、貴方の使用してきた単語を指摘しましょうか。くだらぬ泥試合は勿体ないです。
貴方が、「若不生者の念力」という言葉に、こだわっておられるからです。何度も尋ねられるから、その都度、「知らない」と答えざるを得ないではありませんか。
私が、「浄土真宗のデータベース」に無いような言葉を根拠にして議論を進めたり、貴方に意味を尋ねたりしたことがあったでしょうか?
あるなら指摘して頂きたく思います。
田中一憲

