2008 2/4(月) 11:57 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
先ず、聞きたいことからお尋ねしましょう。
今度のメールで貴方が言われた、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』と、『「若不生者不取正覚」という力』とは、どこが違うのでしょうか。明示して頂きたい。
また、『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』とか、そんな言葉は、「浄土真宗のデータベース」にありませんが、そんな言葉を根拠にして、議論を進めてはならないと言われているのは貴方です。親鸞聖人、どこに仰っているお言葉でしょうか。根拠を教えて下さい。
「親鸞聖人のお言葉に従う」とは言ったが、「親鸞聖人の教えに信順する」とは言ったことがない、と不満を漏らされている。それでは貴方にとって、「親鸞聖人のお言葉に従う」ということと、「親鸞聖人の教えに信順する」とは、どこがどう違うのですか。
またまた、何度、「本願力」と「若不生者の念力」との違いを聞かれても、「同じ」とも「違う」とも言えない、とおっしゃった。その理由は、「説明のしようがない」からだと。
最近どうしてか、意味が同じでも言葉を変えると、貴方はごねられる。当方は意味が変わらない限り、自由な表現を受け入れます。
特に「若不生者の念力」について貴方は、恥も外聞もお構いなしで、「データベース」まで持ち出し滑稽なほどに必死である。貴方の言った「本願力」に関することなのだから、「意味が違うから」、「嫌いな言葉だから」、「どちらか言えば後で困るから」とか、なんとか言って然るべきと思うのだが、その拒みようは尋常ではありません。しかもだ、己の都合の悪い返答を求めるのは「法論と、かけ離れたやり方」と言われては、またなにをか言わんや、と言わざるをえません。
「若不生者不取正覚」という力によって成就した「名号」に、「若不生者不取正覚」という力が納まっているのは当然です。だから「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者」の力ではありませんかと言っているのです。「信楽」に生まれさせる力が「名号」にはあるが、「本願」にはないのですか。「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。
『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と貴方は仰った。
「思います」では貴方の説です。「法論において、己の思いや造語は根拠とならない」「根拠のない説は親鸞聖人の教えとは言えない」と言ったのも貴方です。もっと自己の発言には自覚を持って頂きたいものである。『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だ』の、「根拠」を明示して下さい。
文法で、不可称不可説を表現しようとされた記述が読めますか、と言っているのです。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

