2008 2/8(金) 22:33 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>今度のメールで貴方が言われた、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』と、『「若不生者不取正覚」という力』とは、どこが違うのでしょうか。明示して頂きたい。
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>また、『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』とか、そんな言葉は、「浄土真宗のデータベース」にありませんが、そんな言葉を根拠にして、議論を進めてはならないと言われているのは貴方です。親鸞聖人、どこに仰っているお言葉でしょうか。根拠を教えて下さい。
『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』などという言葉を、私がいつ、使いましたでしょうか?
確かに、『必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。』とは、書きました。
「必ず極楽浄土に往生させる」の部分を削除し、さらに括弧も外して作った言葉でしょうか?
一字一句違わず引用して欲しいとは言いませんが、これは常識の範囲外だと思います。
私が(若不生者不取正覚)と付け加えたのは、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠を示すためです。
貴方は、「若不生者不取正覚」を「極楽浄土に生まれる意味だけ」ということには同意されていませんが、「極楽浄土に生まれる」と親鸞聖人が教えられていることには同意されているはずです。
だから、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠として、(若不生者不取正覚)と付け加えることに、問題はないだろうと思って書いただけです。
括弧内だけを抜き出されて、新しい言葉を作り、私が書いたかのように議論を進められるのは、やめて頂きたく思います。
>「親鸞聖人のお言葉に従う」とは言ったが、「親鸞聖人の教えに信順する」とは言ったことがない、と不満を漏らされている。それでは貴方にとって、「親鸞聖人のお言葉に従う」ということと、「親鸞聖人の教えに信順する」とは、どこがどう違うのですか。
貴方が「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだと主張されるなら、その違いを説明しましょう。
その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?
>またまた、何度、「本願力」と「若不生者の念力」との違いを聞かれても、「同じ」とも「違う」とも言えない、とおっしゃった。その理由は、「説明のしようがない」からだと。
私は、『そもそも「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから、「同じ」とも「違う」とも、説明のしようがありません。』と書きました。
「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、誰が読んでも、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』です。
私の主張を、勝手に変更しないで頂きたく思います。
>最近どうしてか、意味が同じでも言葉を変えると、貴方はごねられる。当方は意味が変わらない限り、自由な表現を受け入れます。
「意味が同じでも」という点に、異論を申しております。
>特に「若不生者の念力」について貴方は、恥も外聞もお構いなしで、「データベース」まで持ち出し滑稽なほどに必死である。
貴方が「若不生者の念力」という言葉を、無理やりに私に認めさせようとしました。
>貴方の言った「本願力」に関することなのだから、「意味が違うから」、「嫌いな言葉だから」、「どちらか言えば後で困るから」とか、なんとか言って然るべきと思うのだが、その拒みようは尋常ではありません。
ところが、「根拠を示してほしい」と尋ねたところ、造語であることが分かりました。今度は、まるで私が好き嫌いで拒んだように書かれます。
造語を根拠に、議論を進めようとするのを拒むのは、当然ではないでしょうか?
>しかもだ、己の都合の悪い返答を求めるのは「法論と、かけ離れたやり方」と言われては、またなにをか言わんや、と言わざるをえません。
私が「法論と、かけ離れたやり方」と書いたのは、造語を根拠に議論を進めるやり方のことです。よく読んでください。
>「若不生者不取正覚」という力によって成就した「名号」に、「若不生者不取正覚」という力が納まっているのは当然です。
『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』という意味で仰っておられるならば同意です。
>だから「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者」の力ではありませんかと言っているのです。
このように主張するためには、「若不生者」の「生」が「信楽が生まれる」という意味だ、という根拠が必要です。その根拠が、まだ示されていません。
>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。
どこにハッキリと誓われていますか?
何回も同じことをお尋ねしています。
>『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と貴方は仰った。
>「思います」では貴方の説です。「法論において、己の思いや造語は根拠とならない」「根拠のない説は親鸞聖人の教えとは言えない」と言ったのも貴方です。もっと自己の発言には自覚を持って頂きたいものである。『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だ』の、「根拠」を明示して下さい。
私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?
前回の貴方の質問と、私の返答は、以下の通りです。
『その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。』
『先に示したように「名号」が、それに当たると思います。』
この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?
相手の主張を捏造して、議論を進めるということは、法論では以ての外と思います。
>その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。
この質問について、私は返答しましたが、貴方の答えを頂いておりません。
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。
田中一憲

