2008 2/15(金) 21:51 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』(これが貴方のメールです)
>
>これは、『「名号」には、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっている』ということではないのですか。
貴方は、その私の言葉のメインの部分を削り、括弧まで外して、「若不生者不取正覚という力」という単語を作り、「そんな言葉を、親鸞聖人がどこに仰っているか」と尋ねてこられました。
「必ず極楽浄土に往生させる」というのは現代語ですから、そのまま聖教に無いのは当然ですし、その根拠として(若不生者不取正覚)と書いたことは、前回述べた通りです。
他人の言葉を改変し、その改変した言葉を根拠に非難されても困ると、申し上げているのです。
>「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」と同じかとのこと、是非そうあって貰いたいものです。違うという貴方の説を聞きましょう。
貴方は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」は違うという認識なのですね。そうでなければ、「是非そうあって貰いたい」という言葉は、絶対にありえません。だとすれば、説明するまでも無いことです。
>「本願力」と「若不生者の念力」は、「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』と、またまた回答を拒否。丁度、牙城を死守する城主のようですね。
私の主張を、勝手に変更したことは認められたようですが、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?
>「本願文」のどこに、ハッキリ「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だと誓われているか、と仰る悲しい貴方。我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも、みな本願力によってであり、若不生者という力であり、不可思議の願力ではありませんか。
親鸞聖人が、どこに「我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも」、「若不生者という力」であると記述されているでしょうか?
これ一つが問題になっているにも関わらず、未だに貴方は一つも根拠を示せないでいます。
>覚如上人は『改邪抄』に「生まるべからざるものを、生まれさせた」のは、本願の不思議である、と言われ、「若不生者の誓」を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも言われるのだ、と仰っているでしょう。
唯信鈔文意に『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』とあるように、「若不生者の誓」の「生」は「真実報土へ生まれる」の意味だということが記述されています。
>その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。
親鸞聖人が、尊号真像銘文に『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されている通りです。
>今、「不可思議の若不生者の願力」に遇わずして、どうして「誠なるかなや、弥陀の本願」の一念慶喜があるのですか。「若不生者の願力不思議」が今働かねば、親鸞聖人の不体失往生も、現生不退も、平生業成もあり得ないのです。
同じことの繰り返しですが、「若不生者の願力不思議」という言葉が、もし存在するとすれば、「信楽をえた人が、極楽浄土に生まれられる力」と解釈すべきでしょう。根拠は、すでに挙げた通りです。
>もし「若不生者」の「生」が「死んで極楽に生まれる」ことだけのことならば、「正定聚の身」になるのは「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。また『愚禿鈔』の「前念命終」させられるのも、「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。「後念即生」させられるのも、「即得往生」させられるのも、「不退転に住する」のも、「若不生者の不可思議の願力」ではないのか。
>やはり、「死んで極楽に生まれる」ことだけの「若不生者のちかい」なのですか。
貴方の議論は、根拠を挙げずに、言葉遊びをしているだけのように思います。自説を百回述べるより、親鸞聖人の言葉を一つ挙げた方が、説得力があると思われないのでしょうか?
>貴方の説は善慧房の教えであっても、親鸞聖人の教えにならないのです。
「善慧房の教え」とは、どういう意味でしょうか?
「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」という解釈ですか?
これについては、聖教の記述と反することは、すでに述べた通りです。
貴方の言う「善慧房の教え」とは、どういう意味でしょうか?
>この度、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何時、私が言ったかと仰った。
>では、『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』は、間違いだと言われるのですね。また『相手の主張を捏造して、議論を進める』と言われても心外ですから確認しておきます。
心外だと言われるなら、私が『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何月何日に書いたか、根拠を挙げて頂きたく思います。
嘘の記述をしておられながら、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?
また、「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いておりません。
なぜ、無視し続けられるのですか?
貴方が作った質問ですよ?
分からないのなら、「分かりません」と答えるべきだと思います。
私は、貴方の質問には、「知らない」「分からない」という返答も含めて、必ず何らかの反応をしております。
ところが、貴方は、私の質問には無視ばかりで、まともに文章を読まれているのか疑いたくなります。
何の意図があってのことか知りませんが、失礼極まりない態度だと思います。
田中一憲

