㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

2008 3/4(火) 12:29 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

田中様

これは、決して返信の催促ではありませんので、お気になさらずに読んで下さい。
先々便(平成20年2月15日)でか、貴方から求められていた、以下のことに就いてですから。

『「信楽」は、「なんの力で生まれるのか」に就いて、「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いていない。なぜ無視されるのか? 貴方が作った質問ですよ?』
と聞かれています。

抑も、この度のメールのやり取りは、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の誓を、「必ず死んで極楽に生まれさせること」だけと主張される貴方に対して、「若不生者不取正覚」の誓は、必ず「信楽」に「生まれさせ」「死後、極楽に生まれさせる」ことだ、と言う意見の相異からなされていることは、今までの経緯を見れば明らかなことです。

故に当方は、「信楽」は「なんの力で生まれるのか」に就いて、陰に陽に明らかにしてきたのですが、この度「信楽」は「なんの力で生まれるのか」。「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何かと、要請を受け漸く本題に入ってこられたことになりました。

貴方は、『「信楽」は「どうして生まれるのか」、本願文には明示されておりません』と言われていますが、釈迦は『願成就文』に「聞其名号」と説かれ、親鸞聖人は、
「無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願を満てたまう」
(高僧和讃)
と教えられているように、本願文にないことを釈迦や親鸞聖人が教えられる筈がありません。

これは、「弥陀の名号」には「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を満てたまう」働きがあるとの親鸞聖人のお言葉です。「名号」には「破闇満願」の徳があり、我々を「信楽に生まれさせる」力があると言われています。

当方が、最初から主張していますように、我々に「信楽が生まれる」のは「本願文」で言えば「若不生者不取正覚」の念力、貴方の言葉で言えば「若不生者不取正覚という力」であり、「本願成就文」の御文で示せば「名号」だと、親鸞聖人の教えは明らかです。

その「名号」は「弥陀の本願」によって成就されたものですから、「信楽に生まれさせる力」のある「弥陀の本願」を、「若不生者のちかい」と、親鸞聖人は言われ、
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ」
(浄土和讃)
と讃嘆されているのです。

「必ず信楽に生まれさせる」という誓によって「必ず信楽に生まれるときがくる」のです。「信楽に生まれる」のは、「一念」の時尅の極促であり、破闇満願して大慶喜しますから、その人を「一念慶喜する人」と言われ、その「一念」で「極楽往生がハッキリします」から、「往生、必ず定まりぬ」と教えられているのです。

「若不生者不取正覚のちかい」は、死んでからだけのことではないのです。死んで極楽に生まれる前に、現生にて「心」の「往生」がなければなりません。それが「信楽に生まれる」ことであり、不体失往生とも現生不退とも平生業成とも教えられているのです。

『教行信証』のお言葉で言えば、「微塵劫を超過すれども仏願力に帰し難く、大信海に入り難し」の大信海に入ることができるのです。また、「億劫にも獲難し」と言われている、「真実の浄信」が獲られるのではありませんか。『正信偈』で示せば、「難中の難これに過ぎたるは無し」と言われている「信楽」を「受持」することも出来るのです。

弥陀の本願の「若不生者不取正覚」といえば、「死んでから極楽に生まれる」(体失往生)しか知らなかった当時の仏教界を震撼させたのが、この親鸞聖人の不体失往生であり、現生不退であり、平生業成の教えではありませんか。

その「若不生者不取正覚」の、阿弥陀仏の真意を、「信楽に生まれさせる」ことであり、不体失往生させることであり、現生で不退転の身にすることであり、平生に業事成弁させることであることを、八方総攻撃を受けながら九十年間、「身を粉に、骨砕き」、『恩徳讃』さながらに開顕し続けて往かれたのが親鸞聖人でした。この洪恩、我らいかに報ずべきでしょうか。

(株)チューリップ企画  サービス課  山田