㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。

2008 3/9(日) 18:20 ㈱チューリップ企画より田中氏へ

田中様

相当、混乱していらっしゃるようなので、仰る通り、双方の主張と論拠を明確にする必要があるようです。

お互い忙しい中、論じ合っているのは、阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」の「生」の仏意一つでしょう。
その「若不生者不取正覚」の「生」は、貴方が言われるように「必ず死んで極楽に生まれさせることだけ」なのか、それとも、当社が主張するように『必ず、「信楽」に「生まれさせ」、死後「極楽に生まれさせる」ことなのか』、ということです。

弥陀が正覚をかけて、「生まれさせる」と誓われているのは、死後だけのことか、この世から未来永遠のことなのかが、今、問われているのです。

(1)
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」という当方の質問に、
貴方は、「本願文には明示されていない」と答えられています(2月2日のメール)。今回も、繰返されています。

当方は初めから、「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」と主張してきたことは過去のメールで明らかです。それを貴方の文章を読んで気づいたかのように勘違いされていますが、全くの誤解です。

(2)
では、願成就文にはどうか。
貴方は、
「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」
「なんの力で生まれるのか」 →「名号」
と答えられています(2月2日のメール)。

しかも貴方は、
『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、
「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』と明言されています(同じく2月2日のメール)。

ところが今回「若不生者不取正覚という力」という言葉は使っていない、と言われるのは事実に反します。貴方の主張の根拠が、いま論じられている本願の御文「若不生者不取正覚」であり、その力の納まった「名号」によって「信楽が生まれる」ということを、貴方自身、認めておられることですよ。
「若不生者不取正覚という力」として、なぜいけないのですか。

本願を詳説された「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。あったら教えて下さい。当然ながら、「若不生者」は「死後、極楽に生まれさせる」だけという教えなど全くありません。これもあったらお示し下さい。

何度も心を鎮めて、ご自分の書かれたものをよくよくお読みになれば、お分かりになるはずです。当方には、貴方の主張を故意に曲げて論じたことは一度たりともありません。

名号に「破闇満願」の力があり、我々を「信楽」に「生まれさせる力」が「名号」にあることは、すでに親鸞聖人のお言葉で、お示ししました。

「若不生者不取正覚」の誓いが、死んでからだけのことではなく、この世で「信楽に生まれさせ」、死んで「極楽に生まれさせる」ことであることも、浄土和讃でお示ししました。

仏教の至極であり、弥陀の願意を釈尊が明らかにされた「本願成就文」には、弥陀の本願の「若不生者」の真意が、「即得往生住不退転」と明らかにされています。

この「即得往生」の意味を親鸞聖人は『愚禿鈔』に、「信受本願 前念命終 即得往生 後念即生」と明かされたのです。死んでからではない、この世で往生できるから、「不体失往生」といわれるのではありませんか。

「本願成就文」によって、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の真意が、不体失往生、平生業成、現生不退であることを生涯、開顕されたのが親鸞聖人であり、その主著『教行信証』は、そのこと一つを明らかにされたものです。

この親鸞聖人の教えを知れば、「弥陀が命をかけられているのは、死後だけのこと」というような主張は、絶対に出てこないのです。重ねて申しますが、この世で「信楽に生まれ」なければ、死後、「極楽に生まれる」ことは絶対に不可能なのですから「信楽に生まれさせる」ことにこそ、弥陀の命がかかるのは当然のことでしょう。そうでなければ、弥陀は「若不生者の誓い」を果たせないからです。

このことさえお分かりになれば、貴方の疑問はすべて霧消するでしょう。反論があれば、お待ちしています。

(株)チューリップ企画 サービス課 山田