2008 3/17(月) 14:40 ㈱チューリップ企画より田中氏へ
田中様
貴方の主張である、「本願の若不生者不取正覚」の「生」は、「死んで極楽に生まれるという意味のみ」だという根拠として、貴方が今日まで挙げられたものは、以下のものです。果たして、貴方の主張の根拠に成りうるものかどうか、検証してみましょう。
『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」は、もし生まれずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころは、すなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』(尊号真像銘文)
『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生まれずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』(尊号真像銘文)
『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』(唯信鈔文意)
以上の三つですが、いずれも明らかな通り、「若不生者不取正覚」は、「信楽をえた人、もし死んで極楽に生まれずは、正覚を取らじ」と教えられているものばかりです。
貴方の出されている根拠は、総て「信楽を獲た人」のみが極楽へ往けるという文証です。
「若不生者不取正覚」と誓われていても、誰もが「極楽に生まれる」ことが出来るのではないのですよ。「信楽を獲た人」だけが「極楽に生まれる」ことができるのですよ、と言われているお言葉です。「信楽を獲た」人だけなのですから、「若不生者不取正覚」は「死んで極楽に生まれる」だけという貴方の根拠にはならないのです。
「死んで極楽に生まれられる」か、否かは、偏に「信楽を獲た」か、否かに懸かっているのですから。
その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。
当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。
ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。
弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。
この親鸞聖人の教えを領解して、貴方の提示してきた『尊号真像銘文』などの文証を篤と読んでごらんなさい。何の矛盾も撞着もありませんから。
親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。
(株)チューリップ企画 サービス課 山田

