2008 3/24(月) 22:30 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>>
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>>
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
前回、このように質問しましたが、ご返答がありませんでしたので、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない、ということが明確になりました。
後になって、そんなつもりは無かったと言い訳をされないよう、くれぐれもお願いいたします。
>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。
上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。
>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。
>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。
貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。
しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。
上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。
>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。
質問をすり替えないで頂きたく思います。
これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
異論がなければ、上記の意味だと判断します。
>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。
貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。
あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。
>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。
>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。
すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。
親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。
極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。
貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?
貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?
親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。
田中一憲

