2008 4/2(水) 00:17 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
異論がなければ、そのように受け取ります。
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
私は3月16日に以下のように書きました。
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>>
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>>
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
つまり、これは「無い」という返答です。
こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
何回でも論証いたしましょう。
しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
>
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>>
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>>
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。
田中

