2008 4/17(木) 22:39 田中氏より㈱チューリップ企画へ
(株)チューリップ企画 サービス課 山田様
>貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。なのに、何一つ質問に答えず無視していると貴方が仰るのは極めて心外です。どんな質問に答えていないのでしょうか、箇条書きにしてお知らせ下さい。重ねてお答え致します。
本気で仰っておられるのでしょうか?
殆どの質問を無視しておられながら、本当に自覚が無いのでしょうか?
ついでですが、「何一つ」とは書いていません。
「メンタルテストです」という返答を頂いたことは、よく覚えています。
私の書いたことを勝手に書き変えることも、何度も抗議しましたが、それも無視されているようです。
貴方が箇条書きにせよと仰いますから、今まで無視された質問を列記しておきます。
これは、直後の返信において無視されたものを列記しましたので、その後、催促して返答を頂いたものも、一部ですが含まれています。
日付も明記してありますから、詳しい質問内容は、過去のメールで確認して頂ければと思います。
これには、きちんと返答したと言われるなら、返信メールの何行目に書かれているか、明記してください。
重複する質問もありますし、あまりに数が多いですから、1つずつ、お尋ねしたいと思います。
(a)3月16日の質問
>>私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
以下、返答いたします。
>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
> かれている処」がありますか。
名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
> の主張の文証を挙げて下さい。
「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。
まず、私の主張をよく理解してください。
それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。
私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。
ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
> 「本願文」三十六文字の総てを解説さ
> れたものという考えには反対です』
> と仰った。
> それでは『本願成就文』は、「本願
> 文」のどこまでの解説で、「本願文」の
> どの部分が解説に入らないのか、とお
> 尋ねしています。
何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。
田中一憲
※以下、過去のメールの引用
(11月21日)
すみませんが、このビデオは素人の集まりで作ったものなのでしょうか?私には、そのように思えませんが。
(11月24日)
1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。
2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである。
上記2点については、異論が無いということで宜しいでしょうか?
(11月27日)
「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということに異論は無いということで宜しいでしょうか?
(11月28日)
「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?
(12月6日)
つまり、貴社の見解は「若不生者の『生』には、生きている時に『信楽をえる』という意味もある」ということでしょうか?
(12月10日)
「死んで極楽に生まれることのみ」ということに異論があるということは、それ以外の解釈があるという御意見ですが、どんな解釈でしょうか?
(12月15日)
私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?
(12月15日)
一度も尋ねられた覚えはありませんが、私は「信楽をえた」身ではありません。山田様は、いかがですか?私はお答えしましたから、山田様もお答えください。
(12月20日)
しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。
(12月21日)
>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。
これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。
(12月21日)
「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?
親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?
「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?
(12月21日)
>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。
再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。
(12月24日)
貴社からのメールは、私の書いたものを全く無視しておられるから、返信する気が失せると、再三、申し上げていますが、わざと無視しておられるのですか?
(12月24日)
親鸞聖人は、信楽をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」の「生」だと教えられています。「若不生者」の「生」に、それ以外の意味があると主張されたいなら、その根拠をお示しください。
(12月24日)
再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?
(12月26日)
>次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。
つまり、上記のような疑問を起こされている山田様の心を、自力の心と言うのですね。
(12月26日)
>『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。
このようなことを親鸞聖人が、どこに教えられているでしょうか?
根拠を示してください。
(12月27日)
>「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。
根拠の無い、独自の解釈ですね。そんなことを、親鸞聖人がどこに書かれていますか?
(1月8日)
もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。
(1月14日)
「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?
(1月14日)
「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?
(1月17日)
>「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。
そんなことを、親鸞聖人が、どこに書かれていますか?
(1月19日)
あなたは、必然的に極楽に生まれられるから、正覚をかける必要は無いと言いたいのですか?
(1月19日)
弥陀が「信楽に生まれられる」と正覚をかけておられるなら、「必然的に信楽に生まれられる」ことになりますが、必然的に信楽になれるのに、なぜ「獲ること難し」を言われているのですか?
(1月20日)
私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違うと、いつ書きましたか?
貴方の作った言葉の意味など、私が知るはずもありません。
ですから、同じとも、違うとも書いた覚えはありませんが、何月何日のメールのことか、お示しください。
(1月22日)
貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?
(1月22日)
『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』
上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?
(1月22日)
「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?
必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。
(1月22日)
つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?
(1月22日)
私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったという根拠を、早く示してください。
(1月25日)
親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は「信楽をえる」ことだと言われた文章を示してください。
(1月29日)
貴方は「信楽をえた」と自称されますが、仮にそうだとすれば、信楽を得られるまでは、弥陀の本願を疑っていたはずです。貴方は、信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従っていなかったのでしょうか?
(1月29日)
信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従う必要がないのなら、誰に対して、親鸞聖人は教えを説かれたのでしょうか?
(1月29日)
親鸞聖人の書かれた文章に対して、「間違った文法も、へちまもあるはずない」と仰るのですか?
(1月29日)
貴方が、「若不生者の念力」という単語を知っておられるなら、どの聖教に書かれている言葉か、教えて下さい。
(2月2日)
「若不生者」の「生まれる」の解釈について、「親鸞聖人のお言葉に従う」と書いたのが、いつの間に「親鸞聖人の教えに信順する」に変わったのですか?
(2月2日)
つまり、貴方の意見だと、信楽をえた人以外は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と言ってはならないということですね。
(2月8日)
その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?
(2月8日)
>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。
どこにハッキリと誓われていますか?
(2月8日)
私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?
(2月8日)
この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?
(2月8日)
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。
(2月15日)
貴方は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」は違うという認識なのですね。
(2月15日)
私の主張を、勝手に変更したことは認められたようですが、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?
(2月15日)
親鸞聖人が、どこに「我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも」、「若不生者という力」であると記述されているでしょうか?
(2月15日)
私が『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何月何日に書いたか、根拠を挙げて頂きたく思います。
(2月15日)
また、「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いておりません。
なぜ、無視し続けられるのですか?
貴方が作った質問ですよ?
分からないのなら、「分かりません」と答えるべきだと思います。
(3月8日)
このように、相手の主張を摩り替えるやり方にも、何回も抗議してきたと思いますが、改善するお気持ちはないのでしょうか?
(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」の意味は、』という主語を、何のために削除されたのでしょうか。この部分があると、何か都合が悪いのでしょうか?
(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」に、「信楽」に「生まれさせる」という意味があるのですか?
(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」は、「極楽浄土」であって、「極楽浄土」に生まれさせるためには、信楽をえる必要があるから、結果的に、信楽にも生まれられると仰いたいのですか?
(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という意味の内容を明言された親鸞聖人のお言葉は…
(3月16日)
私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?
(3月16日)
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?
(3月16日)
「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。
(3月16日)
弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?
(3月16日)
私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
有るのか、無いのかだけで結構です。
他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
(3月24日)
上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。
(3月24日)
これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
(3月24日)
貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
(3月24日)
あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
(3月24日)
貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?
貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?
(4月2日)
貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
(4月2日)
もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
(4月2日)
まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
(4月2日)
「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
(4月2日)
あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?

