【第1回】論戦の発端
平成19年8月18日。
田中一憲と名乗る方から、以下のような問いかけを受けた。
【先日、知人が購入した貴社の仏教ビデオ「世界の光・親鸞聖人」第2巻を拝見させて頂きました。そのシーンの中に、以下のやりとりがあります。
(善恵房)「親鸞殿、お経のどこに、この世で救われるという根拠がありましょうか?」
(親鸞聖人)「勿論、ございます。阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります。必ず生まれさせると誓っておられるではありませんか!」
不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。
こと仏法のことでありますので、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えておりますので】
「こと仏法のこと、内容によっては、ご返信を公開させて頂くことも考えております」と披瀝されていることからも、強く親鸞聖人の教えを明らかにしたいという真剣さが窺えた。
よって、このメールを発端として、どちらが正しい親鸞聖人の教えか、論戦が始まったのである。期間は約10カ月、相互に交わすメールは120通余りに及ぶ。
問題になったアニメのシーンは、今日、「体失・不体失往生の諍論」と言われているもので、阿弥陀如来の救いに就いて、「体失往生である」と主張した善恵房証空と、「不体失往生である」と主張された親鸞聖人との論争を描いた場面である。
「体失」とは“肉体を失って”とあるから「死後」のこと。「不体失」とは“肉体を失わずして”とあるから「生きている時」のことをいう。
「往生」とは、「阿弥陀如来の救い」をいうから、「体失・不体失往生の諍論」とは、
「弥陀の救いは、死後(体失往生)である」か、「生きている時(不体失往生)である」か、という仏法上の大論争だった。
弥陀の救いは“死んでから”だ、と主張する善恵房に対して、親鸞聖人は“生きている時”と主張され、その根拠として聖人は、弥陀の本願に誓われている「若不生者不取正覚」というお言葉を出された。
ここで、あまり仏教に馴染みのない方のために、この度、問題になった阿弥陀如来の本願の「若不生者不取正覚」とは何か、に就いて少し説明しておかなければならないであろう。
「若不生者不取正覚」とは、阿弥陀仏の本願のお言葉で、「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読む。「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこ と、「仏のさとり」は仏の「命」。「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この八字は阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極め て重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」と仰っている。
では、「必ず、生まれさせる」と弥陀が命を懸けられる「若不生者」の「生」とは、何を、いつ、どのように、「生まれさせる」ということなのか、大きな問題となる。
長期に亘る多くのメール交換によって、双方の「若不生者」の「生」に就いての見解の相異点が明白になった。
田中氏は「死んで、極楽に生まれさせることだけ」だと主張し、チューリップ企画は、「この世、信楽(絶対の幸せ)に生まれさせ、死後、極楽に生まれさせる」という誓いであると、主張する。故に弊社のアニメには、そのように描かれているのである。
共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。
お粗末ながら、平成の「体失・不体失往生の論戦」と言えるかもしれない。

