【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で
前回で、釈迦が『弥陀の本願』の真意を開顕された『成就文』の外に、親鸞聖人の教えの無いことを聖人のお言葉で明らかにした。
続いて親鸞聖人の曾孫・覚如上人、蓮如上人のお言葉で、『成就文』の外に親鸞聖人の教えの無いことを確認しておこう。
覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。
「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」
阿弥陀仏の救いは、浄土三部経(『観無量壽経』『阿弥陀経』『大無量寿経』)ともに説かれてはいるが、中でも親鸞聖人は『大無量寿経』のみを真実の教と言われ、その『大無量寿経』でも弥陀の四十八願中、特に第十八の願を根本とせられた。更に、この十八願の真意を開顕せられた、釈迦の『成就文』をもって『至極』の教えである、と親鸞聖人は御教示くだされた。
親鸞聖人は、『本願』は『根本』ではあるが『至極』ではない。『至極』は『成就文』の教えであると言われている。
「至極」とは、「一実であり、円満であり、真の教であり、真宗であり、これ以上、肝要な教えはない」ということである。
また、覚如上人はこうも言われている。
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」
親鸞聖人は、「信心歓喜乃至一念」と説かれている『成就文』四十字の教えを、浄土真宗の安心であると断定し、真実の信心(心行)獲得したか、どうかの物差しとされた。
今まで『成就文』以外の教えを聖人から、この覚如はお聞きしたことがない。
いかに親鸞聖人が『成就文』の教え以外に教えられなかったか。覚如上人の「このほか未だ聞かず」とまで言われていることでも明らかであろう。
蓮如上人の『御文章』もまた同じである。
『これによりて、「南無阿弥陀仏」という六字は、偏に我等が往生すべき他力信心の謂をあらわしたまえる御名なりと見えたり。この故に、願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。
この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり。「其の名号を聞く」というは、ただおおように聞くにあらず。善知識にあいて、南無阿弥陀仏の六の字の謂をよく聞き開きぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり』 (三帖目六通)
『そもそも、当流に立つる所の他力の三信というは、第十八の願に「至心・信楽・欲生我国」といえり。これ即ち三信とはいえども、唯弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。その故は如何というに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんと思う心の一念発るきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節を指して、「至心・信楽・欲生」の三信とも言い、又この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)
『願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり』(三帖目六通)『この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)。
など、蓮如上人も『弥陀の本願』を常に『成就文』の教えで、一貫して説かれていることが知られる。
これらの親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人のお言葉など、『成就文』以外に親鸞聖人の教えのないことが明示されている。

