【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え
破闇満願の働きのある南無阿弥陀仏の『名号』を阿弥陀仏から頂いて、無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたことを、『本願文』では「信楽」と説かれ、『成就文』では「信心歓喜」と言われている。
その「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、前回、親鸞聖人のお言葉で一端を明らかにした。
親鸞聖人のお聖教は、すべて『本願文』では「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」と説かれている世界のことばかりであるから、一々提示する暇がないが、身近な『正信偈』のお言葉で一つ「信心歓喜」の世界を挙げておこう。
「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」
分かり易く言えば『名号』のお力によって「信心歓喜」の身になった者(廻入)は、万川(衆水)が海に流れ込むと塩辛い一味の水になるように、凡夫も聖者も五逆の罪人も仏法を謗っている大罪人も、平等一味になる世界が「信楽」であると明示されているご教示である。
では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。
『執持抄』に覚如上人は、
「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」
と、こう仰っている。
「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」
続いて、このように弥陀に救われた身は、阿弥陀仏の本願に相応し、『本願文』三十六字全体が誠であったと体で知らされ、南無阿弥陀仏の名号と一体となり、私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私となるから、
『「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」という』 (執持抄)
と「信楽」の世界を喝破されている。これを「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲る事なり」と教えられたのは蓮如上人である。
その蓮如上人はまた、『御文章』に古歌を引用されて、「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、弥陀の救いを次のように詳述されている。
『「うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな」。「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり。
「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり』
『「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり』
「昔」とは、『本願文』で「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」の身になっていなかった、弥陀の救いにまだ遇っていない時のことである。
それが弥陀より名号を賜り、破闇満願の「信楽」(信心歓喜)の身になると、どうなるのか、を明らかに教えられているのが以下のお言葉である。
『「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。
かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり』
「今宵」とは、『本願文』の「信楽」、『成就文』の「信心歓喜」の世界に出てからのことを明らかになされた教述であるが、いずれの善知識も「信楽」(信心歓喜)の世界一つを開顕せられていることが解るのである。

