【第12回】信楽は一念で獲得
弥陀が『本願文』で誓われている「信楽を獲る」に就いて、釈迦は『成就文』で、
「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」
と解説されている。これによって、以下の三つのことが明らかになった。
(1)「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、阿弥陀仏が完成された『名号』を聞(頂いて)いて、であるということ。
(2)その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということ。
(3)「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であるということ。
第一の「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、弥陀が完成された『名号』を聞いて(頂いて)であることと、「信楽」(信心歓喜)とはどんなことか、「信楽」(信心歓喜)を獲ればどうなるのか、などは已に述べた。
次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。
この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)
先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。
「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」 (教行信証)
ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。
「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。
「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。
なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。
「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。
中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去 闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。
だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。

