【第14回】機法二種深信とは
「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことである。それは、二つのことがハッキリすることだ。
真実の自己の「実機」と、弥陀の本願の「真法」とである。
真実の自己の「実機」をハッキリ知らされたのを「機の深信」といい、弥陀の本願の「真法」をハッキリ知らされたのを「法の深信」という。
真実の信楽には、この二つの「深信」が同時にあるから「二種一具の深信」と言われることを先回明らかにした。
そこで先ず、「機の深信」でハッキリ知らされる真実の自己とは、どんな者か。善導大師は、こう仰っている。
『一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す』
いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。
親鸞聖人のお言葉も、二、三あげておこう。
『悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず。恥ずべし傷むべし』 (教行信証信巻)
「ああ、情けない親鸞だなぁ。果てしない愛欲の広海に溺れ、大きな山のような名誉欲と利益欲とに阻まれて、極楽浄土へ往ける身(定聚の数)になったことを喜ぶ心もなければ、一夜明ければ一夜だけ、弥陀の浄土に近づいているのに、それも愉しむ心のない親鸞。
どこどこまでも痺れきった、絶対助からぬ奴である。恥ずかしいことよ、悲しいことだ」
『一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し』
(教行信証)
「すべての人は、始めなき昔から今日まで、全心が邪悪に汚染されていて、清浄の心は全くなく、そらごと、たわごとばかりで、真実の心は微塵もない」
また『唯信鈔文意』には、
『しかれば善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなし。懈怠の心のみにして内は空しくいつわりへつらう心のみ常にして、まことなる心なき身と知るべし』
「このような親鸞だから、善人でもなければ賢人でもない。怠け心一杯で立派な人になろうと努める心もない。心は空虚で常に他人の評価ばかりを気にしている、ウソ偽りの名人である。まことの心のない永久に救われぬ身であることだけが知らされる」
あの『歎異抄』では、こう仰っている。
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』
『さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし』
いずれも地獄は必定、永久に助かる縁なき身の表白である。
醜い欲が露わに見えたり、怒りが爆発して恐ろしい心が出たりすると、悪い所へ行くのではないだろうかと不安になる。
妬み、そねみ、うらみ、憎むイヤな心がウロウロすると、こんなことでは助からんのではなかろうかと心配になる。
ある時は極楽へ往けるようにも思えるのだが、ある時は地獄へ堕ちるのではなかろうかと不安になる。こんな若存若亡の信心は、絶対助からぬ自己と知る「機の深信」が抜けているのである。
聞名の一念に仏智満入し、「地獄往き間違いなし」の「機の深信」が徹底していれば、堕ちて当然、助かりゃ不思議と喜べるのだが、このような若存若亡の信心は「二種深信」でも、二心無き「信相の一念」でも、「清浄報土の真因」でもないのである。

