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徹底検証 親鸞聖人の教え

【第16回】弥陀より賜る“信楽”

釈迦の『成就文』で明らかになった(1)(2)についての説明は、一応終わったので、次に、
(3)の「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であると、どうして明らかなのか、善知識方のご教導をお聞きしよう。

釈尊が「成就文」に、「至心に廻向せしめたまえり」と説かれているのが、その証である。
我々が「信楽を獲る」(信心歓喜する)のは、弥陀が誠心誠意で『名号』大功徳を「至心に廻向せしめたまう」からである、と釈迦は教えていられる。

「至心」とは、「まことの心」ということ。
「廻向」とは、「差し向ける」「与える」ということ、「せしめたまえり」は最高敬語である。
阿弥陀仏が『名号』の大功徳を誠心誠意私たちに「廻向せしめたまえり」(お与え下される)からであると仰っているのである。

阿弥陀仏の『重誓偈』のお言葉で示せば、
「我無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずは、誓いて正覚を成ぜじ」。
「衆の為に法蔵を開き、広く功徳の宝(名号)を施し」

と誓われている。

これらのご文でも明白なように、弥陀が『名号』(功徳の宝)を造られたのは、苦しみ悩める私たちに与えて「破闇満願」「信心歓喜」の絶対の幸福に助けるためであったのである。

親鸞聖人は、この弥陀の大慈悲を『教行信証』に、こう詳述されている。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり」 (教行信証)

「すべての人は、はるか遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを弥陀は憐れみ悲しみ、何とか助けようと気の遠くなる永いあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を、私たちに与えるために完成されたのである」

これを簡潔に『ご和讃』に親鸞聖人は、こう説かれている。
「如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心(名号)をば成就せり」

(正像末和讃)
『一念多念証文』では、
『「廻向」は、本願の名号をもって十方の衆生に与えたまう御法なり』
とも仰っている。

蓮如上人は『御文章』に、
「阿弥陀如来の、凡夫の為に御身労ありて、この廻向(名号)を我等に与えんが為に、廻向成就したまいて」
とか、
「不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたもう」
など、枚挙に暇がない。

よくぞ生まれ難い人界に生を受け、聞き難い弥陀の本願に遇い、「無明長夜の闇が破られ、志願が満たされて」絶対の幸福に救い摂られたものか。これは全く弥陀が南無阿弥陀仏の『名号』をお与え下されたなればこそであったのである。

その弥陀の本願の救いの尊さを釈迦は、「成就文」に「至心廻向」と解明下されたのである。故に「信楽(信心歓喜)を獲る」のは、全く弥陀のお力だから「他力の信心」といわれる。「信心を獲る」「信心獲得する」という言葉が使われるのも、自分で起こす信心ではなく弥陀から賜る信心であるからである。

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