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徹底検証 親鸞聖人の教え

【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説

弥陀の「若不生者、不取正覚」の仏意を、釈迦は『成就文』に「即得往生、住不退転」の八文字で解説された。その「即得往生、住不退転」の釈迦の教えを、親鸞聖人は『愚禿抄』に、次のように解明されている。

「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)
他力金剛心也と、応に知るべし。
便ち弥勒菩薩に同じ、自力金剛心也と、応に知るべし。『大経』には次如弥勒と言へり」

先ず、「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る)
即得往生は、後念即生なり(即時に必定に 入る。又必定の菩薩と名くる也)」
の意味からお聞きしよう。

これは一体、どんなことを仰っているのだろうか。
「本願を信受する」とは当然、漢字三十六文字の阿弥陀仏の本願を「信受する」ことである。決して「若不生者不取正覚」の抜けた、二十八文字の本願でない。
その三十六文字の弥陀の本願を「信受する」とは、どういうことだろう。

「信受する」とは、まことであったと明らかに知ることであり、ツユチリほども疑いのなくなったことをいう。釈迦や親鸞聖人、蓮如上人は、明信とか、真知、明知と言われていることだ。

弥陀の誓いの三十六文字にツユチリほどの疑いもなくなったことを「本願を信受する」と言われているのである。
親鸞聖人のお言葉で一例を挙げれば、
「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」 (教行信証)

「攝取不捨の真言」も「超世希有の正法」も同じく弥陀の本願のことであるから、本願三十六文字の誓いに「ウソはなかった」「まことだった」と仰っているお言葉である。
決してこれは、「若不生者不取正覚」の八字を抜いた、弥陀の本願のことではないのだ。

されば「ウソではなかった、まことだった」親鸞聖人のお叫びは、「若不生者不取正覚」のお約束「まことだった」と仰っていることは明白である。

「若不生者、不取正覚」とは、「必ず生まれさせる、若し、生まれずは正覚を取らぬ」ということだから、「生まれていない」者には「若不生者」の誓い「まことだった」とは言えない。いま「生まれた」から言えたのだ。死んでからのことなら、生きているときには言えないことである。

だが「死なねば」「生まれる」ということはないから、親鸞聖人は「本願を信受した」とき死ぬのだと、「心(前念)が、死ぬ(命終)」と仰っている。
「本願を信受するは、前念命終なり」が、そのお言葉である。

「心(前念)が死ぬ(命終)」と同時(後念)に、「若し、生まれずは正覚を取らぬ」の誓い通り、「信楽(不体失往生)」に生まれると仰っている。
これを『愚禿抄』には「後念即生なり」と言われている。「即生」とは、本願を信受した一念に「死んで生まれる」心の誕生(信楽に生まれる)を言う。

親鸞聖人は『愚禿抄』で、『成就文』で釈迦が「即得往生」(即ち往生を得る)と言われているのは、「即得往生住不退転」(不体失往生を得て、不退転に住す)することだと説き、正定聚不退転(信楽)の身になることだと鮮明にされている。

名号を聞信した一念に、弥勒菩薩と同等の正定聚(必定)の菩薩にしてみせる、というお約束が「若不生者不取正覚」の誓いであると仰っているのが、『愚禿抄』の「即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くる也)他力金剛心也と、応に知るべし。便ち弥勒菩薩に同じ」のお言葉である。

これらによっても分かるように、「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである、と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。

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