【第19回】『成就文』の即得往生の正意
前回、親鸞聖人が「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち、正定聚の数に入る) 即得往生は、後念即生なり(即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くる也)」と説かれている意味を明らかにした。
「弥陀の本願を信受した」一念に、心が「死んで、生まれる」という、「信受本願・前念命終 即得往生・後念即生」の親鸞聖人の教えを、次に覚如上人から聞いてみることにしよう。
「平生のとき、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」 (執持抄)
「平生のとき」とは「死んでからではない」ということ。「帰命の一念を発得せば」とは
「本願を信受した」ときのことである。
「娑婆のおわり臨終とおもうべし」とは、この世の終わりで、それまで存在していた心が死ぬ。まさに『愚禿抄』の「前念命終」のことである。
また『改邪鈔』には、こうも詳説されている。
『この娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力を捨てて他力に帰する」とも名け、また「即得往生」ともならいはんべれ』
「娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども」とは、「肉体は健全で、まだ死んではいないが」ということである。
「共発金剛心の一念にやぶれて」とは、「本願を信受した一念に死ぬ(命終)」ということだ。
その「死ぬ心」を、「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情(迷いの心)」といわれている。
「知識伝持の仏語に帰属する」とは、「本願を信受した」ことの換言である。「自力を捨てて他力に帰する」とは、『愚禿抄』に「前念命終なり、後念即生なり」と言われている聞即信の一念のことで、「信楽」(不体失往生)に生まれることである。
「信楽」に「生まれる」ことを、「自力を捨てて他力に帰する」とも、また「即得往生」とも言うのである、と仰っているお言葉である。
『成就文』に「即得往生」と説かれている正意を、「平生のときーー娑婆のおわり臨終(死ぬ)」とか、「肉身はやぶれない(平生)でーー自力の心は一念にやぶれてーー信楽(不体失往生)の身に生まれることである」と、親鸞聖人の教えを覚如上人は明快に喝破されている。
いずれもいずれも、「死ぬ」のも「生まれる」のも、肉体のことではなく心のことであり、弥陀の本願の救いは、死後ではなく平生のことであることを懇ろに覚如上人も徹底される。無論これみな『成就文』の開顕であり、これ以外に、一実・円満の真教、真宗の教えはないからである。
あくまでも釈迦の『成就文』の「即得往生、住不退転」を根拠として、弥陀の『本願文』の「若不生者」の「生」は、「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることを明らかにするために、法友と体失不体失往生の大諍論までなされ、弥陀の本願真実の開闡に、九十年の生涯を捧げられたのが親鸞聖人であったのである。

