【第20回】なぜ若不生者と誓われたのか

釈迦の『成就文』によって、弥陀の「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることが明らかになった。
言い換えれば、弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、「若し、極楽に生まれずは正覚を取らぬ」ではなく、「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」というお約束だということである。
されば弥陀が「若」の一字に正覚(命)を懸けていられるのは、まさしく「信楽」であることは明らかだろう。
前述したように、弥陀は我々を破闇満願(信楽)の身にする働きのある名号を完成され、「信楽」の身に救おうとして誠心誠意、その名号を我々に与えようとされている。
その弥陀が、なぜ「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」と、正覚(命)を懸けてまで誓われねばならなかったのか。そんな必要がどこにあったのであろうか。
その理由は、実に我々自身にあったのである。我々の心(自力)が弥陀の本願を疑い、誠心誠意与えようとされている名号(他力)を頑なに拒絶し、全く受け取る余地のない我々を見抜いてのことであったのである。
釈迦はその実態を『大無量寿経』に、こう説かれている。
「易往而無人」(弥陀の浄土へは、往き易いけれども、人なし)。
親鸞聖人は、この釈迦のお言葉を以下のように解説される。
『「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり、「無人」というは、ひとなしという、ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり』 (尊号真像銘文)
「弥陀の浄土へは往き易い」と釈迦が言われているのは、「本願力に乗ずれば(信楽)本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり」といい、往き易いと仰っているのは、信楽の身になっている人のことである。
「ひとなし」と言われているのは、「真実信心(信楽)の人はありがたき故に、実報土に生るる人稀なりとなり」と仰って、「信楽に生まれた人」が稀だからである、と教えられている。
また、こうも仰っている。
「然るに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲ること難し」 (教行信証)
総べての人は(常没の凡愚・流転の群生)、弥陀の浄土へ往って無上の仏覚を得ることが難しいのではないのだ。
難しいのは弥陀の浄土へ往ける身(信楽)に成ることなのだ、という教誡である。
釈迦や親鸞聖人のこれらのご教導は、いずれも我々が「信楽の身に生まれる」ことの如何に難しいかを教誡されたものだが、それはそのまま、いかに我々の心(雑行雑修自力)の迷心が深くて強いかを教示なされたものと言えよう。

