【第21回】苦しみ悩み流転輪廻する真因
如何に我々が「信楽の身に生まれる」ことの難しいかを、先回、釈迦や親鸞聖人のお言葉で教えて頂いた。次に蓮如上人のご教導を聞いてみよう。
「これによりて『大経』には『易往而無人』とこれを説かれたり。この文の意は、『安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし』と言えるはこの経文の意なり」
釈迦が『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれている意味は、「信楽」の身に生まれた人は浄土へは往き易いが(安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども)、
「信楽」の身に生まれた人が稀にしかないので(信心をとる人稀なれば)、浄土へ往く人がないのだ(浄土へは往き易くして人なし)、と如何に「信楽」の身に生まれる人の少ないかを教示なされている。
このように、いずれの善知識方も等しく我々の「信楽」に生まれることの難しいことを強調していられる。
弥陀が名号を誠心誠意与えようとされているのに、なぜ、こんなに「信楽」を獲る人がないのであろうか。
それについて親鸞聖人は『教行信証』に、こう教誡なされている。
「悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。
自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし」
折角、弥陀が「名号」を誠心誠意与えようとされているのに、それを拒絶しているから大信海に入れず、果てしない微塵劫の過去から今日今時まで、苦しみ続ける悲しい人とならねばならぬのである。原因は、偏に「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と、断言されている。
また、『正信偈』には、こう教導されている。
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」
この意味は、私たちが果てしない過去から今日まで、車輪が果てしなく廻って終わりがないように、苦しみ悩みの迷いの世界を経めぐって終わりがないのは、全く「疑情」一つなのである、と断言されているお言葉だ。
また『高僧和讃』には、次のように教えていられる。
「真の知識にあうことは
難きがなかになを難し
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき」
これは、私たちが真実の仏法を伝える方に邂逅することは、千載一遇の難事の中の難の難事、滅多にないことなのである。真実の仏法を伝える方とは、我々が果てしない過去から今日今時まで、苦しみ悩みの迷いの世界を輪廻して終わりがないのは、全く弥陀の本願を疑う「疑情」一つであると教える人であると言われているお言葉である。
幸福一つを求めて生きている我々を、果てしない過去から今日まで苦しめ続けてきた最も怖ろしいもの、それを親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」と言われている。
「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」とは一体、どんなものなのだろうか。次に解明しなければならないであろう。

