【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの
我々を、今までも、今も、今からも苦しめ続ける最も怖ろしい、親鸞聖人の「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とは何か。また「疑情」と言われているものは如何なるものか。それが「信受本願」の一念に死ぬと言われているものとは一体、どんな心であろうか。
世間では我々を苦しめているものは、欲や怒りや愚痴の煩悩だと思われているが、親鸞聖人は三世を貫いての苦悩の元凶は、そんな煩悩ではないことを教えられている。ではその元凶はなにか。
お聖教には種々の言葉で説かれている。已に挙げたように親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とも「疑情」とも言われている。また「本願疑惑心」とか、「仏智疑う心」とか、「無明長夜の闇」とも仰っている。
覚如上人は「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」とか、「生まるべからざる心」と言い、蓮如上人は「往生不定の心」とか「二心」とか「雑行雑修自力の心」など種々教導なされているものである。
一言で言えば、「弥陀の本願」を疑っている心であり「死んだらどうなるかハッキリしない心」だ。いざ真面目に自分の死を凝視すると、「若存若亡」(ある時は助かるように思い、ある時は助からぬのではなかろうかと危ぶむ心)「往生不定の心」(浄土へゆけるかどうか、ハッキリしない心)「死んだらどうなるのだろう」「ひょっとしたら悪い処へゆくのでなかろうか」「このままでよいのだろうか」
「弥陀は本当に助けてくださるのだろうか」「俺の信心これでよいのであろうか」「ひょっとしたら間違っているのでなかろうか」などの心、総べてを言う。
この三世を徹して苦しめる元凶(三世の業障)を「必ず、一念で晴らし大安心の心(信楽)に生まれさせる。若し、生まれさせることができなかったら、正覚を取らぬ」と誓われているのが、「若不生者不取正覚」の弥陀の八文字なのである。
この弥陀の誓い通り、本願を信受した一念に三世の業障が死(命終)んで、弥陀の浄土へ往生間違いなし(即生)と、本願に疑い晴れて大満足の心に生まれられた(不体失往生)のを親鸞聖人は、「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」と慶喜なされ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことに時いたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」
と和讃なされているのである。
覚如上人は、この弥陀の本願の救いを『改邪鈔』に、『本願の不思議をもって、生るべからざるものを生れさせたればこそ、「超世の悲願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ』
と教導なされている。
この「生るべからざるもの」が「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」であり、「生まれさせた」が「信楽に生まれた」ことである。こんな不思議な弥陀の本願だから「本願の不思議をもって」と覚如上人は言われて、だからこそ弥陀の本願を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも教示なされているのだ、と仰っているのである。
蓮如上人は『御文章』に、
『「不可称・不可説・不可思議の功徳」ということは、数限りもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり』 と詳述される。
これら善知識方が揃って『本願文』の「若不生者」の「生」は、釈迦の『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の仰せの通り「信受本願・前念命終・即得往生・後念即生」であることを、重ね重ね鮮明になされていることが知らされる。

