【第23回】現当二益の法門
『本願文』の「若不生者」の「生」が『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の「信受本願・前念命終、即得往生・後念即生」の現益であるとすれば、浄土真宗の教えは一益法門になるではないか、と田中氏は非難されている。
浄土真宗・親鸞聖人の教えは、現当二益の法門であることは周知の事実である。
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」 (教行信証)
『和讃』には、
「五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし」 (正像末和讃)
「真実信心うるひとは
すなわち定聚のかずにいる
不退の位にいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ」 (浄土和讃)
親鸞、明らかに知らされた。現在、等覚の位にいる弥勒菩薩が仏覚を開くのは五十六億七千万年後であるけれど、「若不生者不取正覚」の弥陀の本願力によって、今生で他力金剛の信心(信楽)に生まれている者は、正定聚不退転の菩薩となり、肉体の命終と同時に無上の仏果を得るのである。
『浄土和讃』では、真実信心を獲た人は、正定聚不退転の身となる。正定聚不退転になっている人は、必ず死ねば浄土へ往き仏覚が得られるのである(滅度にいたらしむ)、と阿弥陀仏の救いに二益あることを鮮明に説かれている。
蓮如上人も、こう詳述される。
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」 (御文章)
「若不生者不取正覚」の誓いによって、一念発起のときに正定聚(信楽)に生まれるのである。これは此の娑婆世界でのことである。
正定聚不退転の身(信楽)に生まれた人が仏覚を開くのは、極楽浄土へ往ったときのことである。だから親鸞聖人の教えは二益法門であることを知らねばならない。
これらの文証でも明らかなように、浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々である。
それなのに、『本願文』の「若不生者」の解説が『成就文』の「即得往生」であり、その「即得往生」が「信楽に生まれる」ことだとすると、『本願成就文』以外説かれなかった親鸞聖人の教えは現益のみの一益法門になるではないか、と思われる方があるかも知れぬ。
事実、田中氏も、それでは親鸞聖人や蓮如上人の現当二益の法門にはならない、とチューリップ企画の主張を繰り返し激しく非難され一方的に論戦を打ち切っていられる。
だが、その非難は全くあたらないのである。第十八願「若不生者のちかい」は選択の本願であり、今生で信楽(正定聚不退転)に生まれている人が必ず往生し仏になれるのは、十一願の「必至滅度の願」が成就しているからであると、親鸞聖人は次のように仰っている。
「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」 (正信偈)
意味は、この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである、と断言されている。
阿弥陀仏の第十一願には、次のように誓われているから「必至滅度の願」と言われる。
「設我得仏 国中人天 不住定聚
必至滅度者 不取正覚」
分かり易くすると、こうなる。
「設ひ我仏を得んに、国の中の人天、
定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、
正覚を取らじ」
この弥陀の『十一願』を、釈迦は『十一願成就文』に、こう解説されている。
「其れ衆生有りて、彼の国に生まるる者は、
皆悉く正定之聚に住す。所以は何ん、彼の
仏国の中には、諸の邪聚及び不定聚無けれ
ばなり」
親鸞聖人は、『本願成就文』の「即得往生住不退転」を根拠に、「国の中の人天」を「信心歓喜乃至一念で国の中の人天」(十八願の人)になるのだと断定し、「生彼國者」を 「彼の国に生まるる者は」と読まれたのだ。それは邪定聚(十九願の人)や不定聚(二十願の人)は、この娑婆にいるのであって彼の極楽浄土にはいないからである。
必至滅度の願 難思議往生
「謹んで真実證を顕はさば、則ち是れ、利他
円満の妙位、無上涅槃の極果なり」
「則ち是れ、『必至滅度の願』より出でたり、
亦『證大涅槃の願』と名くるなり」
(教行信証證巻)

