【第24回】田中氏のメールの検証
ここまでは、田中氏の提起された阿弥陀仏の『本願文』の「若不生者」の「生」に関する、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示の概略を述べてきた。
そこでこれからは、具体的に田中氏からのメールを提示して、これら善知識方の教えを定規に検証してみることにしたい。
論点は一貫して、『本願文』の「若不生者」の「生」一つである。弥陀が「生まれさせる」と正覚の命を懸けて誓われている願意を、田中氏は「死後、極楽に生まれることだけ」と主張し、我々は「この世、信楽に生まれさせること」と主張してきた。
このような見解の相違は、両者の『成就文』の理解が根本的に異なることが原因である。
我々は、釈迦の『成就文』は『本願文』三十六文字すべての解説である、と理解する。
田中氏は、『成就文』は『本願文』の一部の解説であり、「若不生者不取正覚」の八字は抜けている、と主張する。
どちらが正しい親鸞聖人の教えなのか、聖人のお言葉を挙げて説明した。
繰り返すが、『成就文』は親鸞聖人が「一実円満の真教真宗」と言われている教えである。もし『成就文』が『本願文』の一部の解説であるなら、「一実円満の真教」とは言われないだろう。それは「円満(完全)な教え」でも「真実の教え」でもないからである。
しかも、田中氏が「『成就文』に解説がない」と言われるのは、「若不生者不取正覚」の八字である。弥陀が命を懸けられている「若不生者」の「生まれさせる」を、釈迦は『成就文』に解説されていない、というのが田中氏の意見である。
これでは聖人のご著書はどれも正しく読めないだろう。件の『尊号真像銘文』を誤解された原因も、ここにあるのではなかろうか。
田中氏のメールを挙げてみよう。
◆平成19年10月20日のメール
尊号真像銘文には
『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり』
『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり』
と記述されています。
いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。
このように田中氏は、この『尊号真像銘文』を根拠として、「若不生者」は「死後だけのこと」と言われるのだが、親鸞聖人の教えは『成就文』の教え以外になく、『成就文』に死後のことは説かれていないことがお分かりになれば、このような誤解も解けるのではないだろうか。
では、これらの御文の真意は何であろうか。同じく『銘文』に親鸞聖人は、
「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」
と明言され、「死後、極楽に生まれられる」のは、「この世、信楽に生まれた(不体失往生)」人のみである、といわれている。だから弥陀の命は「不体失往生」に懸けられている、と開顕されているのが、釈迦の『成就文』であり、親鸞聖人の教えである。
提示の『尊号真像銘文』も、この『成就文』の教え以外になく、「この世、信楽に生まれた人」だけが「死後、極楽に生まれられる」のだから、弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている、と言わんとされているのである。
田中氏のメールを、続けて検証していこう。

