【第27回】田中氏の「往生」の誤解
『成就文』の教えを知られない故の、悲しい誤解が続く。
◆平成19年12月4日のメール
貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。
二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。
果たして、浄土真宗の「往生」を誤解しているのはどちらであろうか。二つの往生は、全く無関係の別物なのだろうか。「成就文」の「即得往生」についての善知識方のご教示を、重ねて頂いてきたが、この問題は根深く、善恵房証空でも間違えたところであるから、再往を述べねばならないだろう。
では、その「成就文」には、「若不生者」と弥陀が正覚の命を懸けていられる「生」を、どう解説されているのか。「『即得往生』と説かれている」と、親鸞聖人は鮮明にされ、弥陀の本願は「不体失往生」であることを生涯開顕なされている。主著の『教行信証』を始め、『愚禿鈔』『ご和讃』『尊号真像銘文』などのご著書も、かかる仏意の宣揚以外になかった。かの「体失不体失往生の諍論」も、「若不生者」を「死後だけのこと」とする善恵房の迷妄を打破し、「不体失往生」の弥陀の救いを発揮せんが為の、聖人決死の大法論であった。
この親鸞聖人の教えを、覚如上人は『口伝抄』に、こう明示されている。
「真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
肝要も淵源も、これ以上大事なことはない表現だから、〝弥陀の本願の最も優れて尊く大切なのは、平生一念の「不体失往生」であると、釈迦や親鸞聖人は言われている〟ということである。
では、なぜ弥陀は、「信楽に生まれさせる(=不体失往生)」に命を懸けていられるのか。それは、「この世、信楽に生まれ」さえすれば、「死んで極楽に生まれられる(=体失往生)」と決定するからである。すなわち「信楽」とは、「極楽に生まれられる」身のことであり、「往生一定の決定心」をいうのである。
この密接不離な「不体失往生」と「体失往生」を、田中氏は完全に切り離し、「同じ『生』の字を使っていても、意味は全く違う」という理解だから、混乱されるのも当然だろう。しかも、その自説に合わせて「本願文」を無理に解釈しようとするから、「至心信楽」と「若不生者」を分断するという、先の珍しき領解になるのである。これでは、「弥陀の本願文」総てを「若不生者の誓」と言われた親鸞聖人とは、明らかに異なる。
かかる田中氏の誤解の根本は、真宗の肝要・至極である「成就文」の曲解にあることを、繰り返し銘記しておきたい。

