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徹底検証 親鸞聖人の教え

【第29回】「若不生者のちかい」の真意

弥陀が「若不生者」と命をかけられているのは、極楽に生まれる「体失往生」か、この世で信楽に生まれる「不体失往生」か、田中氏の主張の検証を続けよう。

◆平成19年12月15日のメール
文法的にみても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章(「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生必ず定まりぬ」(『浄土和讃』)は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。

このように述べられる田中氏の主張は、「若不生者」の「生」は、あくまでも、死んでからの極楽往生に限る、というものである。

文法的に見ても、親鸞聖人の解釈からもそうだ、と言われているのだ、ここで、「文法的にそうだ」というのは、どういう意味なのだろうか。

同じ日のメールで、田中氏は、次のようにも言われている。

◆平成19年12月15日のメール
貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

つまり、このご和讃を「ときいたり」で切って理解しては、文法上おかしいではないか、というご忠告なのだが、そんな主張をいつ誰がしたのだろう。はじめから誰も、「ときいたり」で切ってなどいない。田中氏の明らかな誤解である。

自分の勘違いに基づいて「親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずがない」と力説されても困るのである。

この和讃を、平成20年1月26日に、こちらから田中氏へ送信したメールには、こう解説している。

「『若不生者のちかいゆえ』のご和讃も、「信楽開発」の一念を、「信楽まことにときいたり」とも、「一念慶喜する」とも、「往生かならず定まりぬ」とも言われているのであって、みな、一念同時のことなのです」

これを受けて、田中氏も、こう言われている。

◆平成20年1月27日のメール
山田様の仰るとおり、「信楽まことにときいたり」も、「一念慶喜する」も、「往生かならず定まりぬ」も、同時であるとお見受けいたします。

このように、「信楽まことにときいたり」で文章が切れるのではなく、「信楽に生まれた」時に、「一念慶喜する」のであり、その時同時に「往生が決定する」ことは田中氏も認めざるを得ないのだ。文章に書けば前後ができるが、いずれも一念同時のことなのである。

そして、この「信楽に生まれ、往生が定まる一念の体験」は、まったく「若不生者のちかい」によるものなのだよと、親鸞聖人が明らかにされたのが、このご和讃なのである。

『本願文』の「若不生者」は、『成就文』で「即得往生」と示され、親鸞聖人はこれを、「生きている現在、心が死んで生まれることだ」と解釈されていることは、繰り返し述べてきた。

根拠は、『愚禿鈔』の「信受本願・前念命終、即得往生・後念即生」で明らかである。

親鸞聖人は、『成就文』の教えに立たれて、弥陀の「若不生者の誓」は「不体失往生の誓」であることを開顕された方なのである。

この『浄土和讃』も、『成就文』の教導に立って拝読すれば、「若不生者不取正覚」と、弥陀が命をかけていられるのは、死んでからのことではない、平生ただ今「信楽に生まれさせる」ことにかけられているのだということが、鮮やかに知らされるのである。

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