【第30回】本願を信受する時
本願文を分断して「至心信楽欲生我国」と「若不生者不取正覚」を切り離し、この二つを完全に別事として領解されている田中氏の誤りは、検証してきた通りである。
ところが一方で、こうも言われている。
◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。
「思います」どころの話ではない。聞信の一念に「本願文」三十六文字すべてに疑い晴れるのが弥陀の救いであり、親鸞聖人の教えであることは、浄土真宗の常識である。
「本願すべてに露チリほどの疑心も無くなった」ことを聖人は、『愚禿抄』に
「信受本願(本願を信受する)」
とか、そのご自身の実体験を、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」(教行信証)
と告白されている。「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、ともに「弥陀の本願」三十六字のことである。「助かるだろうか」の後生不安な心(疑情)が一念で晴れ渡り、「助かったことの不思議さよ」と後生明るい心(信楽)と晴れた時が、「まことなるかな、弥陀の本願」と一念慶喜する時であり、三十六文字すべてに疑心が無くなった時なのである。だから本願の一部を疑い、残りを信じる、ということは有り得ない。
すなわち、「若不生者(必ず生まれさせる)」の誓いに疑心が晴れるのは、「信楽に生まれた(不体失往生)」時であって、決して「死んで極楽に生まれた(体失往生)」時ではないのである。これを『愚禿抄』に、
「信受本願 前念命終 即得往生 後念即生」
と教示されていることは、再三述べてきた。
〝「若不生者の誓い、まことだった」と疑心晴れた(信受本願)時が、後生暗い心が死んで(前念命終)、信楽が生まれた(後念即生)時である。これを釈迦は「成就文」に「即得往生」と説かれている〟
と、まさに「若不生者」の誓いは「不体失往生」であることを鮮明にされたお言葉なのである。
田中氏は後で、「この『愚禿抄』は、『至心信楽』についてだけ言われた御文であって、『若不生者不取正覚』についてはどこにも触れられていない。だから貴方の根拠にならない」と反論されたので、驚いたり呆れたりだったが、では「信受本願」の「本願」は、「若不生者の誓い」とは別物なのだろうか。氏の「本願文」には「若不生者不取正覚」の八字はすっぽり抜けているのであろうか。あるいは「本願の一部を疑い、残りを信受するということは無い」という発言が、単なる建て前なのだろうか。
かかる明らかな矛盾にも、「信楽」と「若不生者」を切り離す田中氏の混乱が、露呈しているのである。

