㈱チューリップ企画の販売するアニメビデオ『世界の光・親鸞聖人』について、㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦の記録を公開しています。
徹底検証 親鸞聖人の教え

【第31回】「若不生者」に疑い晴れるのは平生

親鸞聖人が『尊号真像銘文』に「信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり」と仰せの通り、弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなった心を「信楽」という。
本願を信ずる心(信楽)が生まれたとは、本願三十六文字すべてに疑い晴れたことであり、本願の一部を疑って、残りを信ずることは無いと前回、明らかにした。
それなのに田中氏は、「信楽に生まれる」にあたるのは「至心信楽欲生我国」だけと限定し、あとの「若不生者不取正覚」は「浄土に生まれる」ことだと主張される。

◆平成19年12月22日のメール
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

もし、田中氏が言われるように、「若不生者」は〝死後、浄土に生まれることだけ〟とすれば、「若不生者」の誓いまことかどうか、死んでみなければハッキリしない。「信楽」に生まれても、本願の一部に疑心が残ることになる。

こんな自己矛盾が生じたのも、一実円満の真教『成就文』を誤読したからであろう。
『成就文』では「若不生者不取正覚」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、死んだ後ではない、平生の一念に不退転の心(信楽)に生まれる「不体失往生」だと説示されている。
田中氏が繰り返された『「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です』という説明は、どこにもない。
「信楽」に必ず生まれさせてみせると、弥陀が不体失往生に命を懸けられたお言葉が「若不生者」だから、誓願通り信楽に生まれたとき、「若不生者」の誓いまことだったと、三十六文字と一体になるのである。
「信楽が生まれること」と「若不生者」を分断する田中氏の主張を、引き続き『成就文』に基づいて検証しよう。

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