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徹底検証 親鸞聖人の教え

【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

「若不生者」は「極楽に生まれさせる」ことだけであり、死後に限ると、田中氏は一貫して主張される。

◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

いくら「明らかです」と言い張ろうと、『成就文』に根拠がなければ、聖人の教えにならない。
親鸞聖人は本願を一実・円満の真教『成就文』に忠実に解釈されたのだから、聖人が「若不生者」をどう解釈されたか知るには、『成就文』の正しい理解が必須である。

その『成就文』には現在の救いのみ説示され、死後のことは一切、説かれていない。だから聖人が「若不生者」は「死後、極楽に生まれること」だけと解釈されたご文など、あるはずがないのだ。
聖人のお言葉は、「若不生者」は死後に限るという田中氏の誤りを正されたものばかりである。

『成就文』には「若不生者」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、弥陀が「必ず生まれさせてみせる」と命を懸けられたのは、「生きている時、信楽に生まれる」不体失往生であることを明示されている。
だから親鸞聖人は『愚禿鈔』で、「若不生者」の「生」は、『成就文』の「即得往生」であり、信楽の心に生まれることだと細説されていることは、すでに述べた。

『信受本願 前念命終 即得往生 後念即生』(愚禿鈔)

弥陀に救われた一念に迷いの心が死ぬ(前念命終)と同時に、「即得往生」と信楽の心にする(後念即生)。ここでも聖人は、「若不生者」と命を懸けられたのは、心が死んで生まれる現在の往生(即得往生)だと明言されている。まさしく『成就文』に合致した聖人のお言葉である。

なお、田中氏は平成20年6月28日のメールで、この『愚禿鈔』のお言葉は『「若不生者」については触れられていません』とも主張されているが、「信受本願」とは弥陀の本願まことだったと、本願三十六文字にツユチリほどの疑心もなくなり、本願と私が一つになったことである。「若不生者」を抜いた本願の一部に疑い晴れたことでは決してない。
本願と一体になった一念に、心の臨終と誕生の同時体験をさせられたと仰有っているのだから、本願のこの部分には「触れられていません」などという理屈が通るはずがなかろう。
「触れられていない」どころか、「若不生者」は「死後、極楽に生まれる」意味しかないという、現代もある根深い謬見を正されたお言葉なのである。

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