【第36回】「若不生者の誓、まことだった」の表明
田中氏は、また次のようにも言われている。
◆平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と親鸞聖人が『教行信証』の冒頭に仰っているのは、当然ながら生きているときである。
「摂取不捨の真言」も、「超世希有の正法」も、「弥陀の本願」すなわち「若不生者の誓」であるから、「若不生者の誓、まことだった」と親鸞聖人はここで仰っているのである。
ところが、「若不生者不取正覚」の「生」は、死んで極楽(本願の実報土)に生まれることだけだ、と思い込んでおられる田中氏は、親鸞聖人の「必ず生まれさせる、弥陀の本願まことだった」という感動的なお叫びも、その真意が正しく読めないのであろう。
「『若不生者不取正覚』という力によって『生まれさせられた』慶喜ではない」と平然と言い放たれる。
では、親鸞聖人の「弥陀の本願まことだった」の表明は、一体なんなのか。弥陀の本願三十六文字から、「若不生者不取正覚」の八文字だけを抜いた「残りの二十八文字だけがまことだった」という意味だとでも言われるのであろうか。
そんな田中氏は、こうも言われているではないか。
◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。
そのとおりである。
本願文の一部「若不生者不取正覚」を疑い、残りを信じるということはありえないのだ。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」は、明らかに、弥陀の本願三十六文字すべてが「まことだった」という表明であり、それは「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」からに他ならない。それは、「死んで本願の実報土に生まれさせられた」慶喜ではもちろん無く、「生きているときに、信楽に生まれさせられた」慶喜であることも明白である。
まさに、「若不生者不取正覚」の八文字は、弥陀が「不体失往生」に正覚(仏のさとり)をかけておられるのだということを、親鸞聖人が自ら信知されて叫ばれたのが、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」ではないか。
まちがった思い込みから、田中氏がお聖教のお言葉も正しく読めなくなっておられる、これは一つの例証であろう。

