【第37回】「若不生者」と「即得往生」の関係
弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。
だが田中氏は、「若不生者」は死後、極楽に生まれる当益だから、「即得往生」とは異なると主張される。
◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
「若不生者」と「即得往生」はイコールでない、これが田中氏の持論である。
◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
成就文には不体失往生しか説かれていないから、田中氏の主張通りなら、成就文は「若不生者」抜きの不完全な解説になってしまう。たしかに田中氏の理解では、成就文は本願文すべての説明ではない。
◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。
では、本願のどこの解説か確認したところ、全く分からないと告白されている。
◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
これでは、「若不生者」と「即得往生」はイコールでないの断言は何だったのか危ぶまれる。根拠を示せないことは、本人も認められている。
◆平成20年6月21日のメール
「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った親鸞聖人の根拠があるかどうか、私は分かりません。
そんな田中氏が、本願で不体失往生を誓われたのは「若不生者」でないと言い張り、「至心信楽」と〝考えるべきでしょう〟と推測されるのだ。
◆平成20年6月18日のメール
本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉(至心信楽)と考えるべきでしょう。
「でしょう」と憶測している人に、「若不生者」は不体失往生でないと断定できようか。これも、根拠無き発言が真相だった。
◆平成20年6月21日のメール
『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。
「若不生者」が不体失往生を誓われた根拠は、釈迦の成就文に聞くべきであろう。

